ひどい時代だからね。神が死んだ後、人は地上を草一本生えないまで汚染してしまった。混沌であればまだしも生まれるものがあったのに。僕らは最後の人類かもしれない。これから善良な人間が生き延びるのは至難だ。草太は、遁世するしかない。

生き延びて欲しい。わたしたちくらいになって何事か意味を理解できるまで。

老夫婦は地上を遠離(とおざか)りつつ語らうのである。

母の死の病を気付かなかった。生方先生のことに身も心も奪われていた。思う気持ちが迷っていた。父と重信さんを憎んだなんて。まず己を恥じよ。父と重信さんと昔話をしながらそんなことを思っていた。そしたら呼ばれたようにあの人が現れた。

夜になって帰宅して、ドアを閉めたまま立っている。力なくただいまと言う。

「疲れた?」

居間に手を引いて連れて入る。ソファに掛けさせる。胸騒ぎするほど表情が暗い。

「何があった?」

服を脱がせてやって体がくたるのを

「すぐパジャマになっちゃえ」

珈琲を淹れてきて啜るのを目の前で視ている。

「腹減ってない? 話は明日にしよう? ベッドに入ろう?」

抱いて行って寝かせる。寝かせてから

「化粧、落とすんだったね?」

「いい」

「淳さん……僕を視て。苦しいままで眠らないで。お父さんか? その、重信さんか?」

「結婚すると……言いそびれた……」

「……反対されても……僕はいい。あなたが可愛そうだけど」

「反対されない」

眠るまで抱いていてと甘える。なんだってやってあげる。

すやすや寝入ったあと、腕に柔らかい感触を抱いたまま八汐の恋慕は薄闇を彷徨う。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『フィレンツェの指輪』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。