その後も奥羽諸藩兵の加わった副総督軍と庄内軍との間で戦闘があったが、奥羽諸藩兵に戦闘の熱意はなく、その内、解兵、次いで奥羽列藩同盟の成立という展開になった。こうなると、今度は副総督の一行が同盟各藩からあるいは藩内へ入ることを断られ、あるいは藩領からの退去を求められて、右往左往することになった。

この状況は九条総督一行についても同様で、総督一行は仙台領から南部領、そして秋田領へと逃げるように移動した。

一方、南の戦線では、新政府軍が上野の彰義隊を潰走させた5月15日の4日後、東山道軍の総督であった岩倉具定が奥羽征討白河口総督に、北陸道軍の総督であった高倉永祜が奥羽征討越後口総督に任命され、江戸を目指した東征大総督軍の態勢が、奥羽を目指すものに再編された。

同時に諸藩に兵士の増援要請がなされた。それ以前越後方面では、旧幕軍の跳梁、柏崎の分領での桑名藩主の反抗に加え、越後各藩の帰趨も必ずしも明らかでなく、このため新政府では、4月19日、北陸道軍の総督であった高倉永祜を会津征討総督兼務とし、薩摩藩士黒田了介と長州藩士山縣狂介を参謀として、越後方面に向かわせていた。

そのような時、長岡藩では、家老河井継之助の意見により、新政府と会津藩に対し藩の立場を中立とすることに決めた。しかし、河井が5月2日に、その立場を説明すべく小千谷で東山道軍の軍監岩村精一郎に会うと、岩村は言下にこれを退け、速やかに藩の向背を明らかにするよう言い残して席を蹴った。

この後河井は、再度その立場を総督府に嘆願しようと総督府の周りを巡ったが、嘆願を受け入れてもらうには至らなかった。藩に帰った河井は藩論を抗命に決め、藩は奥羽同盟に加わることになった。5月19日、長岡城は新政府軍の攻撃を受け占領された。この後も長岡軍は同盟各藩の応援を得て抵抗を続け、7月24日には一時城を奪回した。

しかし、7月には新政府軍の大動員があり、また新発田藩が新政府側に転じた。新政府軍の増援部隊が新発田領松ヶ崎などに続々上陸してくるようになると、北越の戦況は完全に新政府軍優位となった。7月29日、長岡城は再び落城し、長岡軍・同盟軍は会津に逃れた。河井はその途中、長岡城奪回時に受けた傷により死んだ。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。