奥羽越同盟

閏4月に入ると、それまでの仙台・米沢両藩の救解の努力に対し、会津藩から降伏条件の提示があった。しかしそれが、開城や首謀者の首級には及んでいなかったため、両藩の意には沿わなかった。

それでも仙米両藩は、奥羽諸藩に、「会津のために共同して新政府に嘆願書を提出すべく会合を開きたい」と呼び掛け、閏4月11日、仙台領白石に各藩の重臣が集まった。この間に会津藩から、首魁の首級を差し出すことについて承諾があった。

翌12日、白石まで出てきていた仙台・米沢の両藩主が、仙台領岩沼に陣を進めていた九条総督に会い、「会津藩老臣の仙米二藩に対する斡旋の依頼書」(これを以て会津藩の嘆願書と称した)、「仙米両藩主による嘆願書」、「奥羽列藩老臣連署の副願書」を呈し、その採用を嘆願した。

これに対し総督は、会津の嘆願書が体を成していないのみならず、両藩主の主張する宥免の条件が、削封と首謀者の首級のみで開城に言及していないとして、両藩主を詰り、これを返却しようとした。が、両藩主が執拗に食い下がったため、総督はいったんこれを受け取った。

しかし嘆願はすぐに却下され、仙米両藩主には速やかに会津に討ち入るよう命令があった。これに対し両藩主は、閏4月19日、「嘆願書の却下には服し難いので、いったん征討の兵を解き、さらに衆議を尽くした上、直接太政官の意向を聞くことにしたい」と総督府に届け出、討会の兵を解いた。

翌日以降、他の奥羽各藩もこれに倣い、討会さらには討庄の兵を解いた。同じ閏4月19日、松島上陸以来その傲慢横暴また侮蔑的態度で奥羽諸藩の恨みを一身に集めていた総督府参謀の世良が福島で捕らえられ、翌朝、仙台藩士に斬殺された。

世良に限らず、新政府軍の将兵の奥羽諸藩主や藩士に対する傲慢無礼な態度は常軌を逸したものがあったようである。この後引き続き、仙米両藩の主導により、奥羽諸藩の重臣たちが集まって、太政官への建白書また攻守同盟について協議し、5月3日には、重臣たちが同盟の盟約書に署名、ここに奥羽25藩による仙台藩を盟主とする列藩同盟が成立した。

間もなくこれに長岡など越後の6藩が加わり、同盟は奥羽越列藩同盟となった。これより先、澤副総督と大山参謀は、庄内藩の討伐のため九条総督と別れ、天童、新庄と進み、4月24日には庄内藩と戦闘に入った。しかし敗退した。