天文十六年(西暦一五四七年)

物見の知らせによれば、氏綱勢を率いているのは河内の守護畠山政国とその守護代の遊佐長教であるという。首魁の細川氏綱はいないらしい。高屋城を発した敵勢は大和川を北上し、河内と摂津の国境にある正覚寺城に入城したという。

一方、畠山次郎尚誠と和泉国守護代松浦興信の和泉衆も既に和泉国を発し、住吉大社辺りまで兵を進めていた。

儂ら長慶勢三万も榎並城を発し、石山本願寺の東を迂回して南下。夏の日に蒸された阿倍野の草いきれの中、天王寺辺りに兵を進めていた。長慶勢の本隊にいる儂は三好長逸とともに長慶様の側にあって馬を並べていた。

「和泉衆はまだ見えませぬなぁ」

長逸が目の上に手をかざして南の方を見やった。

「正覚寺城を取り囲んでいる間にやって来られよう」

と、儂が返した時、伝令が走り寄り馬上のまま大声で告げた。

「河内高屋勢は正覚寺城を出て、こちらに向かっております。その数およそ一万五千」

「我らより数で劣るというに、何故城から出てきたのか。何か策略があるのではあるまいか」

長逸は(いぶか)った。

「おそらく我らが和泉衆と合流する前にけりを付けたいのでございましょう」

城に籠っても援軍が期待できなければ、儂でも城を出て戦うと思った。

「弾正忠、我らは阿倍野の茶臼山に陣取る。後軍の宗三殿には四天王寺に、先陣の之虎ら阿波衆は茶臼山の南に、中軍の冬康ら淡路衆は茶臼山の東に展開して陣を敷くよう伝えよ」

「ははっ」

長慶様に命じられた儂はすぐに伝令を走らせた。

河内高屋勢は、儂らが既に茶臼山を中心に鶴翼に展開しているのを確認すると進軍を止め、茶臼山の東に半里(十八町)と離れていない舎利尊勝寺を本陣として生野周辺に兵を展開した。

河内高屋勢は、儂ら長慶勢が高所に陣取り、しかも兵の数も多くいるのを前にして、明らかに進撃を躊躇するように見えた。

そこへ之虎隊から伝令が来て、南方より和泉勢が来援したことを告げた。

「和泉衆、南方より来着。その数およそ三千」

床几から立ち上がり、見晴らしの効く茶臼山山頂から南方の土煙を確かめると、長慶様は右手に持つ采配を左肩上からゆっくりと前方へ振り下ろした。

「中軍の冬康と左翼四天王寺の宗三殿に兵を進めよと伝えぃ」

「和泉衆の畠山次郎様と松浦殿には、そのまま進み河内高屋勢の左側面を突いてくだされと、ご挨拶は戦に勝利した後にと、お伝えせよ」

長慶様の的確な指示を受けた伝令らは、すぐに各方面へと駆け出していった。

こうして摂津国阿倍野天王寺の東にある舎利寺辺りで両軍は激突した。

宗三隊と冬康率いる淡路衆は陣を前に進め、河内高屋勢に向けて遠矢を放ち、河内高屋勢も前進してこれに対抗した。

そこへ南方から近づいて来た和泉衆は、兵を休めることなく鋒矢の陣形に隊列を組み変え、行軍の勢いのまま河内高屋勢の左翼に突っ込んでいった。

河内高屋勢は自軍の右翼(北側)と正面から遠矢を射込まれているところへ、左翼(南側)に現れた新手の和泉衆に攻め込まれ、しばらくするとやや押され気味となった。

それを見た長慶様は頭上高々と振り上げた采配を力強く前方へ振り下ろした。

「今ぞぉ! 総掛かりじゃ! 全軍進めぃ!」