新型コロナウイルスの感染拡大防止方法として重視される社会的距離は日本人の意識構造に実に良く適合する

新型コロナウイルスの世界的な感染拡大により、人と人の間隔を空ける「ソーシャル・ディスタンシング」の大切さが強調されるようになった。

欧米人は、直接的な接触により安全や愛情を確かめないと気が済まない。握手は、お互いに銃を持っていないこことを確認する手段が社会儀礼化したものと言われている。そういう所作が定着する根底に流れている思想は「人間性悪説」である。

最近、イタリアやスペインなどの国では、感染拡大の第一波が過ぎたという判断で、外出禁止や自粛の措置が徐々に解除されつつあるが、危惧の念を抱かざるを得ない(刊行当時)。なぜかと言うと、あの情熱的なラテン系の国々である。久しぶりに家族や友人、恋人と会えるのだ。キスやハグなど、精一杯のスキンシップを図るだろう。無症状の感染者がウイルスをうつす危険性は大きいだろうと推測せざるを得ない。

それに対して日本人は、間接的な接触でも安全や愛情を確かめることができる。

良い例が「お辞儀」である。適切な距離を取り、相手より頭を低く下げ合うことで、尊敬と尊重の念を表すのだ。お辞儀の角度を微妙に変えることで、相手を尊重し敬意を払ってきた。そこに通暁する思想は「人間性善説」である。

この日本人と「間」について、熊倉功夫氏が小学館発行の『日本大百科全書(ニッポニカ)』の中で洞察に満ちた分析を展開されているので、以下引用して紹介したい。

「日本人には間という微妙な意識がある。名人と呼ばれる落語家の語り口は間のうまさが絶妙だし、剣道では間の取り方が勝敗を決する。日常的にもぼんやりして『間が抜ける』と、約束に『間に合わず』、『間の悪い』思いをする、といったように、間ということばの用法は広い。

このような間の意識には、間取りとか隙間といった空間意識の間と、太鼓の間とか、間を外すといった時間意識の間とがある。まず時間意識の間からみると、リズムとかタイミングとも言い換えられる。日本の間と西洋のリズムの間にはかなり差がある。

機械的な正確さで拍子と足が当たるのではなく、間に長短があってその微妙なずれが雅楽をよりおもしろく見せるという。どうやら日本の間にはリズムやタイミングのずれを喜ぶ不規則性が加味されているようだ。

しかも大切な点は、西洋のリズムは音や動作を伴う拍子そのものが耳に響くが、日本の間は拍子と拍子のあいだの空白を意識する違いがある。この空白はからっぽの空ではなく、次の拍子への緊張感を充実させた空である。つまり微妙に伸縮する時間の空白が間であり、それは空間意識の間に通じる。

千利休は、絵画のなかに描き残された空白の部分に侘びの美があると言った。絵画や文学の余白、余情という無規定、空白の間に美を認める考えは、日本の建築にも表れる。

西洋の大建築では、完全な、しかも均整の取れた設計図があって細部まで決定されて工事が始まる。しかし日本の代表的建築である桂離宮を見ると、2回の増築によって建物は不均衡に発展し、現在の姿が完成した。

初めから増築の余地が予定されていて、余白としての間に新しい意匠を加えて全体が完成される。日本人の空間意識の間には、余白という無規定性あるいは非相称性が含まれる。では、どこから日本人の間の発想が生じたのか。

間の意識の根底には、日本人が自分と他人との関係を非常に重視する思想があるだろう。本来は人々の世界という意味の人間(じんかん)を日本人は人間(にんげん)という意味に転換させた。これも、人と人との間柄のなかに人は存在しているという意識の表れだった。

相手と自分の微妙な間柄を表現する謙譲語や敬語が異常に発達したのも日本語の特徴である。或いは世の中を意味する世間という言葉を、自己と世の中の間の社会関係として世間体などと使うのも、他者の目を常に意識する日本人の社会心理である。

このような相手と自分の間柄を重視する土着的な日本人の意識が、人間関係の微妙さを表現するさま様の文化を生み、空間や時間の間に、西洋にはない不規則性や無規定性などの微妙な変化を鑑賞する日本の伝統文化を創造したと見ることができよう」

皆さん、どうお感じになりましたか。自虐的になるのは止めましょう。日本は「間の文化」という素晴らしい精神世界を持っているのです。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『未来を拓く洞察力 真に自立した現代人になるために』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。