奥羽越同盟

奥羽地方については、2月9日に澤為量が奥羽鎮撫総督に任命されていたが、その後鎮撫使の使命を鎮撫とするか討伐とするかで論議があったようで、最終的には、総督九条道孝、副総督澤為量、参謀醍醐忠敬、下参謀薩摩藩士大山綱良、同長州藩士世良修蔵という総督府の顔触れとなった。

総督の一行は、3月19日、仙台領の松島に上陸した。奥羽諸藩にはすでに会津藩討伐の命令が出ていたが、当時奥羽の諸藩は、幕末の全国諸藩に共通する財政の悪化に加え、地域に特有の頻発する冷害・飢饉による負担もあって、容易に出兵に応じ得る状況にはなかった。

加えて会津藩に対する同情や、討伐そのものに対する疑問、さらには薩長両藩に対する反感もあった。総督は、仙台藩主伊達慶邦に会うや、即座に「速やかに会津に進撃するよう」と命じ、以後も仙台藩は、特に下参謀たちから、対応の遅さを繰り返し口汚く詰られた。

他の藩も、仙台藩を応援して会津を討つようしばしば督促された。このため諸藩は、表向き討伐の姿勢を示し、会津藩と馴れ合いで小競り合いをして見せたりする一方、仙台藩や米沢藩を中心に、和平の道を模索し、会津藩には恭順を勧めた。

会津藩も、当初は恭順の姿勢を示していたが、穏便な処置を求める新政府への嘆願が全く相手にされず、一方で新政府側の討伐の姿勢や動きが明確になるにつれて、次第に態度を硬化させていった。総督府が会津藩と共に庄内藩をも朝敵として討伐の対象としたことは、奥羽諸藩にとってさらに不可解であった。

鳥羽伏見戦直後、徳川慶喜をはじめとして会津、桑名などの藩が朝敵として討伐の対象とされた時には、庄内藩の名はそこに全く出てこなかった。庄内藩討伐を命じられた秋田藩などは、総督府に繰り返しその討伐理由を質したが、明確な答えはなかった。庄内藩も新政府側の動きに対抗して武備を固め、間もなく会津藩と同盟関係に入った。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。