佐久総合病院若月俊一院長農村医学会の創設者

佐久総合病院の若月俊一院長は、農村医学の創始者として知られています。岩波新書の『村で病気とたたかう』(1971)を読み、その波乱万丈の生涯に感銘を覚えました。その要約を以下に述べます。

若月先生は、1910年6月、東京神田で洋品店を営む若月幸作の次男として生まれました。旧制松本高校から東大医学部に進学しましたが、学生中にマルクス主義に傾倒し、自治会を作り、自らリーダーとなって活躍しました。それが当局の忌諱に触れることとなり、一年間の停学を命ぜられました。昭和11年に卒業しましたが、札付きの卒業生はどの診療科でも入局させてくれません。ただ東大病院分院外科の大槻菊男教授のみが、入局を許可しました。内科志望でしたが、ここで外科医となることを決意し、研修に励みました。大槻教授の指導はきびしく、よく叱られたようです。

昭和12年、応召され、衛生部の初年兵として満州チチハルに行きましたが、結核を発病し、帰国して入院、退院とともに除隊となりました。大槻教授の計らいがあったようです。だがその後にまたしても、治安維持法に触れるというかどで、1年間、拘束されました。

たび重なる不祥事に、出所後、大槻教授の前に手をついて謝罪しましたが、教授は意外にも叱りませんでした。そして「この米国の爆撃で東京は焼け野原になるだろう。君のような若者は東京を離れ、空襲がない農村に行き、そこで医療を研鑽したらどうか。幸いここに佐久病院から求人が来ている」と言われ、厚生連佐久病院を紹介されました。それが佐久病院に赴任する契機になったわけです。厚生連とは、全国厚生農業協同組合連合会の略で、要するに農協の医療施設です。

佐久病院は小海線の臼田駅から徒歩15分というところにあり、人口5千人という田舎町です。浅間病院には東大病院からの恵まれた支援がありましたが、佐久病院は同じ20床ながら、白髪の温厚そうな院長と若い女医がいるのみで、午前中は外来、午後は往診で入院患者はいませんでした。そしてここから誰からの支援もなく、まさに徒手空拳で、若月先生が病院を立て直したのです。病院の外には医療に恵まれない重症患者が大勢います。また病院のなかには何事にも反対して私腹を肥やす事務長がいました。

先生は、多数の外科医学の書物を取り寄せ懸命に勉強し、診療しながら手術の術式を覚えました。就任3ヵ月して乳がんの手術を施行したのです。だが病院で患者が来るのを待っていただけでは、とても住民のニーズに応えられない。一歩進んで住民のなかに入っていって、出張診療を実施することの方が大事と思いました。