要するに日々の生活ぶりがつき合ってすぐにわかってしまうような女性、そう変化のない単調な毎日を堅実に過ごしているとみえる女性となると、来栖は途端に関心を失ってしまう。恭子の場合は彼女の日々の生活ぶりは何となくわかっていたのだが、人間の品格とか芸術の価値についての見方などに彼女流の独自性といったものが表れているようにみえて、彼女とのつき合いでは飽きがこなかった。百合と恭子への関わりが極端に違ってしまったことでは、彼はこのような理由づけで自身を納得させようとしていた。

女性への対応は結局のところ彼自身の身勝手な価値観から出ており、その性向はその後も変わらないままだった。現実にあっては自分をもしかすると深く愛してくれ、日常のこまごまとした生活の一コマ一コマで自分に寄り添ってくれたかもしれない百合という女性には気づかずじまいだった。

それだからこそ、このような了見でいる限り、最後は孤独で独り身の生活を過ごしてしまうことになるだろうとは、彼自身覚悟しているところだった。ここまで考えたところで、来栖は百合の『遺書』の前半部を読んだ限りでは不愉快な思いが勝っていたのに、後になって読んだ後半部では、妙に真実味を帯びた、身に沁みる言葉として思い当るところがあった。百合に対する考え方が根本的に変わってしまったからかもしれない。

「単に男性の容貌ということであの方の外見だけを取り出せば、女性を惹きつけずにはおかない人とは言えないのですから、あの方には悪いのですが、私ほどの強い愛情で彼に接する人がこの後現れるというようなことはありもしないのでは、というのが私の正直な気持ちです」

この箇所を読んだ最初は「何と独りよがりの思いを遺して逝ったものだ」と、百合の言葉を切り捨てた。しかしこの後『遺書』の後半部を繰り返し読むごとに、百合がこのようなことを断定調で記すようになったきっかけは何だったのか、彼女の人となりが分かるよう努めてみようかという気になっていった。