横須賀造船所については、1905年の日露戦争の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った連合艦隊司令長官東郷平八郎が、戦後小栗の遺族を自宅に招いて、「日本海海戦での日本の勝利は横須賀造船所、小栗上野介のお陰である」と言って感謝したという話がある。

北欧のバルト海から喜望峰を回っての延々半年以上の航海で、船底に貝殻や海藻が大量に付着するなど整備不良のバルチック艦隊に対し、連合艦隊の艦船は、横須賀造船所のおかげでピカピカの整備状況で戦うことができたということであろう。

また、幕末に勘定奉行を務め、横須賀造船所ともかかわり、小栗とも親交のあった栗本鋤雲の残した次の話も小栗を有名にした。鋤雲自身は、維新後は郵便報知新聞主筆などジャーナリストになっている。

「予猶其巨費の如何を憚りたれば、仔細商量あられよ、……託せし後は復た如何す可からずと云へは、上野笑て愈々出来の上は旗号に熨斗を染出すも、猶ほ土蔵附売家の栄誉を残す可しと」(日本史籍協会編『匏庵遺稿』)

同じ話は島田三郎によっても次のように伝えられている。島田は栗本より30歳ほど若いが旗本の家に生まれ、やはり横浜毎日新聞の主筆などジャーナリストであるとともに、衆議院議員としても活躍した。(この島田の言に関しては、それを記した原典が手に入らなかったため、村上泰賢『小栗忠順のすべて』によった。)

「ある人が小栗に『大枚の資金を投じて造船所を造っても、完成する頃に幕府の運命がどうなっているか分からないではないか』と言ったところ、小栗は様子を改めて、『幕府の運命に限りがあろうとも、日本の運命には限りが無い。自分は幕臣であるから幕府のために尽くすが、それは結局日本のためである。幕府のしたことが永く日本のためになって、後々、徳川のお陰だと言われれば、徳川の名誉ではないか、国の利益ではないか。同じ売家にしても、土蔵付の売家の方がよい。後は野となれ山となれと言って退散するのは宜しくない』と」

徳川慶喜の罪一等を減じ江戸城を無血開城した時、新政府側が旧幕府側に出した五つの条件の五番目は、第7章で記したように、次の一項であった。

一、与謀者は死一等を減ずるも相当の処分を。但し万石以上の者は朝裁による

旧幕府を代表する田安慶頼がこの勅旨を奉ずる旨新政府側に回答したのが4月7日。そして、慶頼は4月8日には、「鳥羽伏見戦時京阪にあって罪状ある者として、9名を揚座敷入等に処した」と新政府に届け出ている。小栗の名はその中にはないが、新政府側がそれに異議を唱えた形跡はない。小栗は「万石以上の者」でもない。

小栗ほどの者を処刑しようとするのであれば、大総督府がかかわっていなかった筈はないと思うのだが、どうであろうか。事後に勝海舟が西郷隆盛に強硬に抗議したと言われる。西郷はこの件にかかわっていなかったのだろうか。