長野県の奇跡 日本一の脳卒中県から日本一の健康長寿県へ

長野県は、一九六〇年代は、日本一の脳卒中県として知られていました。これを日本一、寿命が長く、医療費が少なく、健康長寿県としたのが、二人の医師です。一人は北佐久郡国保浅間病院初代院長・吉澤國雄先生、他は南佐久郡農協佐久総合病院・若月俊一院長で、二人とも波乱万丈の人生を送りました。

吉澤國雄先生という人

吉澤先生は、一九一五年生まれで、お父上は北京大学教授(考古学)を務めたことがあります。一九四一年、東京大学医学部を卒業し、翌年には陸軍軍医中尉に任官して中国にわたり、診療に従事しました。終戦になってもすぐに帰国せず、日本人の帰国に奔走されました。

それが中国共産党の目にとまり数年拘束されましたが、洗脳されることなく一九五四年に帰国し、第三内科に入局して冲中教授に師事することになりました。十二年間も中国におられたのです。年齢は私たち同期のものより一回り上でしたが、医学・医療を学ぶ上では同輩として行動を共にされ、親しくお付き合いをしました。

第三内科では糖尿病の研究班に入って動物実験で学位を取り、その後冲中教授の地域医療に貢献する意向を受けて、新設の国民健康保険(後に佐久市立)浅間病院院長に就任しました。この病院は、医療に恵まれない地域の国民健康保険連合会が、熱心に冲中教授に病院建設を申請したことに応えたものです。しかし地元医師会はこれに大反対し、病床数は二十床と最低に抑え、岩村田町の中心からはずれたところに建設させました。

吉澤院長は、こうした条件を意に介せず熱心に診療にあたり、また地域における最大の課題であった日本一高い脳卒中発症の抑制に取り組みました。それには従来の上意下達の方式ではなく、率先して住民のなかに入り、講演や話し合いを通して「自分の健康は自分が作る」という自立の理念を住民に植え付ける必要があります。まさしく健康長寿につながるものです。

先生の講演は分かりやすくユーモアと熱意に溢れ、住民に人気がありました。講演回数は五年で百二十五回に及びました。吉澤先生は体も大きく豪放磊落で患者に優しく、話が上手で地域医療に率先して当たりました。住民にやる気を起こさせること、すべて住民本位であること、それが先生のねらいでした。

そのため保健師、看護師の他に、一般住民のなかからも保健補導員という組織を導入して教育に当たりました。どうすればよいかを自分で考え、実践するようにしたのです。

佐久市で明らかにされたのは、家屋のいくつかある部屋がどれも寒いこと、卵、豆腐、肉類などの蛋白質の摂取が極度に少ないこと、一方みそ汁は一日に三杯という人が多いことでした。先生はこれに対し「一部屋温室づくり運動」を主張し、ストーブで温かくした一部屋を作り、厳冬期を乗り切るようにさせました。

食事では塩分を減らし、タンパク質、脂肪をとる食事指導をしました。保健師や保健補導員を教育し、積極的に自分で血圧を測定できるように配慮しました。開業医からの反対を押し切ったのです。