神様の俳句講義 その八 山粧やまよそおう

私が俳句の神様の講義内容を話し終えると、酒を飲む手を止めて聞き入っていた三人から、ふぅうと大きなため息が漏れた。手帳に書き取った句とメモをじっと見つめている。しばらく無言の時間が流れた。それを破ったのは、豊かな銀髪を七三分けした市島だった。

「松岡、これって盗作にならないか。久保田万太郎の姿かたちをした神様の発言にも有ったように、実際は全部神様が作った句を、君の句として句会に出しているのじゃないか。これって大丈夫なのか」

私は、次の理由から私の行為は許されると自己弁護した。

まず、これらの俳句は既に誰かの名のもとに発表されたものを、私の作品としたのではない。創作はあくまでも神様と私が行ったものだ。作句時点で私の貢献度が低いことは認めるが、私が全く関与しなかったわけではない。神様が降りてきて下さり、その都度異なった視点で、いろいろな指導をして頂いている。その幸運に感謝しつつ、私は出来の悪い教え子ではあるが、神様と一緒に俳句を作り続けている。

添削を受けた句の場合、その添削を納得すれば、添削した句を自分の句とすることができる。やや強弁になるが、私のケースでも、私の考えた原句を神様が添削したとも言い得る。たしかに、まともに原句が存在しなかったこともある。そこは大目に見てほしい。盗作の場合、被害者がいるが、私と神様の共作には被害者がいない。これまで神様から、句の取り消しを求められたり、損害賠償請求や提訴を受けたことはない。

さらに、神様の手助けを受けているのは、私だけではない。今に残る名句、秀句といわれているものの多くは、何らかの形で神様の加護があったと、私は思う。その物的証拠はないが、神様のアシストに感謝して、肖像権をうんぬんせずに、俳句の神様が自分のコスプレをすることを許している有名な俳人が多数いるということは、立派な状況証拠といえるのではないか。