群馬県の前橋に小河原左宮と白井宣左衛門の墓を訪ねたのは4月の末であった。群馬県は政治の中心である前橋市と商業の中心である高崎市とが、そう遠くない距離で役割を分担している。それだけに前橋は悪く言えば活気に欠けているが、良い意味では静かに落ち着いて趣のある街である。前橋へは高崎駅から歩いた。県庁の辺りが昔の前橋城の跡のようだが、城の名残と思われるものは見当たらない。しかし、この辺りからこの後訪れた小河原と白井の眠る寺、そして利根川沿いと、一帯の広大な緑地は見事なものである。

小河原と白井の寺は、昔懐かしい児童遊園地の隣にあった。飛行塔、回天木馬、豆汽車、色々な小振りの昔風遊戯施設がそう広くはない敷地にずらりと並び、そこここで子供たちが歓声をあげていた。

寺はその向こうである。墓地は広い。庫裏で二人の墓の位置を聞く。白井の墓は白井家の墓地にあり、今でも白井家の人たちに守られているようである。墓石に慶応4年6月12日の文字が読み取れた。

小河原の墓は、寺の入口近くの駐車場の脇にあった。塀の裏はすぐ遊園地で、子供たちの声が絶えず聞こえていた。墓石には、慶応4年閏4月3日の文字があった。

寺から出ての帰り、遊園地の終園の音楽が流れ、広大な利根川河畔の緑地では大勢の市民がいつまでも沈まない太陽の光を浴びてあるいは散策し、あるいは走り回っていた。

譜代1万6千石の佐貫藩にも木更津に屯集した旧幕軍脱走兵から応援要請があった。勤皇家の家老相場助右衛門は強く反対したが、譜代の藩として佐幕を唱える者が多く、4月28日の会議で応援が決まった。その帰途、助右衛門は佐幕派に襲撃され、斬殺された。

『富津市史』によると、襲撃者たちの行為は「忠誠の一途から出たもの」としてなんら咎めはなく、一方相場は、家は断絶一家追放の重い処分を受けた。相場家には前藩主の子が養子として入っていたが、連れ戻された。また同書によると、どこを探しても棺桶を売ってくれる所がなく、夫人のすみ子は従妹のお関と女中のお春との三人で小長持に相場の死骸を収め、寺に葬ったという。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。