二  天文十五年(西暦一五四六年)

去る天文十二年。細川京兆家(細川本宗家のこと)の庶流の細川氏綱が、弟の細川藤賢とともに和泉国の横尾山施福寺で挙兵した。これに河内の守護代遊佐長教や紀伊根来寺の衆徒が味方し、一大勢力となった。

氏綱の養父は前管領の細川高国で、三好範長様の主君である細川晴元様の政敵であったが、共に細川京兆家の家督を争い、最終的には晴元様が高国を攻め滅ぼし、晴元様が細川京兆家の家督を継いだ……という経緯がある。

氏綱勢の挙兵に対応すべく、晴元様は近江の守護六角定頼の支援を得て兵を集めた。範長様の下で儂も晴元勢として各地を転戦したが、一進一退で決着がつかず、両者は譲らぬまま三年が過ぎていった。

範長様が目指す〈民草が安寧に暮らせる世〉へは、一歩も進めない状態が続いていた。

天文十五年になると、どうしたわけか六角定頼や、池田氏などの摂津の国衆らが氏綱方に寝返り、あろうことか時の将軍足利義晴公までもが氏綱と結んだため、晴元勢は圧倒的に劣勢となった。

儂らは京を追われ、晴元様は丹波国に落ち、範長様と儂らは一旦、越水城に帰還した。

一計を案じた範長様は三好本国の阿波に援軍を要請し挽回の機を窺った。阿波ではさっそく、範長様の長弟の三好之虎と、讃岐の十河家に養子に入っていた三弟の十河一存が動き、次弟で安宅家を継いでいた安宅冬康も淡路からそれぞれ兵五千を率いて瀬戸内を渡海し越水城に入った。これにより三好党の兵は合わせて二万にも膨れ上がった。

そして丹波に逃れていた細川晴元様も越水城に入城した。

「殿、御舎弟様方、広間にお集まりでございます」

と、儂は居室の範長様に三人の弟たちの来着を告げた。

「おぉそうか、すぐに参ろう」

久々の対面だからであろうか、珍しく浮かれて居室を飛び出した範長様は、冬の寒さに凍てつく廊下を足早に広間へと向かった。

板敷の広間の戸を開けると、正面上座には厚く着込んだ晴元様が既に着座しており、三人の御舎弟らは鎧姿のまま下座に控えていた。範長様は晴元様の左脇に座し、儂は既に控えていた三好長逸の隣の一番末席に控えた。

「彦次郎、神太郎、又四郎。遠路遥々、冬の瀬戸内を越えてよう来てくれた。よう助けに来てくれた」

範長様は三人の来援が余ほど嬉しかったのであろう、少々声を詰まらせながら三好之虎、安宅冬康、十河一存をそれぞれの通名で呼び、心から謝意を表した。そして上座に向き直り晴元様に進言した。

「右京大夫様(晴元の官途名)、四国からの助勢あらば、もはや氏綱勢など恐るるに足りませぬ。ここは一気に和泉・河内に攻め入りましょう」

「三好の四兄弟のこと、頼もしく思うぞ。そなたらの忠義決して忘れぬ。励め」

晴元様もこの時ばかりは三好四兄弟に(すが)る思いであったろう。未来が開けたという期待に満ちた表情で仰せられた。

「御敵をば、はや追い落としてご覧に入れまする。お心安らかになされますよう」

三好之虎が良く通る声で返答した。

晴元様はたいそう満足されたご様子で、

「兄弟で積もる話もあろう。軍議のことなど、あとは良しなに」

と言い置いて座をはずした。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『 松永久秀~天下兵乱記~』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。