前橋藩については、富津陣屋で家老の小河原が切腹したことは先に述べたが、改めて新政府軍から不始末を問われると、富津で支配の地位にあった白井宣左衛門が、藩の潔白を示すべく、一切は自分がしたこととして割腹、その首が新政府軍に差し出された。

譜代3万石の久留里藩は、恭順の姿勢をとりつつも、やはり秘かに旧幕軍に兵糧米を与えていた。この旧幕軍は林たちとは別のようである。そのことが進駐してきた新政府軍に洩れ、藩は執拗な追及を受け、申し開きに苦しんでいた。

『三百藩家臣人名事典』によると、そんな中、藩士杉木良蔵の息子良太郎は、単身新政府軍の本陣に赴き、佐幕論を主張して談判、さらにいったん家に戻ると、刀を持って再び新政府軍の本陣に向かおうとした。これに気付いた父親の良蔵は、新政府軍からの藩主への嫌疑も晴れていない時に息子が大事を惹き起こしてはと、良太郎を斬り殺した。閏4月10日のことという。

譜代1万6千石の佐貫藩にも木更津に屯集した旧幕軍脱走兵から応援要請があった。勤皇家の家老相場助右衛門は強く反対したが、譜代の藩として佐幕を唱える者が多く、4月28日の会議で応援が決まった。その帰途、助右衛門は佐幕派に襲撃され、斬殺された。

『富津市史』によると、襲撃者たちの行為は「忠誠の一途から出たもの」としてなんら咎めはなく、一方相場は、家は断絶一家追放の重い処分を受けた。相場家には前藩主の子が養子として入っていたが、連れ戻された。また同書によると、どこを探しても棺桶を売ってくれる所がなく、夫人のすみ子は従妹のお関と女中のお春との三人で小長持に相場の死骸を収め、寺に葬ったという。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。