ほどなくして母は再入院した。自ら望んで、緩和病棟に入院した。ここはただ命を延ばすためだけの治療は行わないが、痛みや呼吸苦などの症状に対する薬は使ってくれる。母にとって理想的な生活がそこにはあったようだ。

「ここは3食何もしなくても運んできてくれるし、掃除だってしてくれる。何にも不満がない」

いつも満足気にそう言っていた。この頃、一緒に住んでいた妹は大阪大学に入学した。彼女は保育園の頃から公文式で学び、小学校に上がる前に英検4級に合格した。成績も優秀だったようで、全国でもトップクラスになった時に東京で行われた表彰式についていった覚えがある。私も弟も普通の子どもでいられなかった分、妹が唯一、親孝行だったことが、母にとって救いだっただろう。

妹がいなくて寂しいだろうという思いと、残された母の時間に少しでもやれることがしたいと思い、私の家から片道1時間程度のところにあった病院に、毎週通った。母の好きそうなお菓子やケーキを見つけては買っていった。洗濯物を持って帰り、翌週持っていく。

大したことではないが、生まれて初めての親孝行。時々、母は私の英作文を採点してくれた。母は楽しそうに教えてくれた。私たちは黒く染まった過去を、きれいな色に塗り替えようとしていた。親子をもう一度「やり直して」いたのだった。とてもきれいな時間だった。

そんな幸せな時間は長くは続かなかった。入院して3ヶ月ほどしたある日の夜、今夜がヤマであることが主治医から伝えられた。私は弟と妹を呼んだ。近くに住む弟はすぐにやってきた。大阪にいた妹も急いでこっちに向かおうとしたようだが、時間的に飛行機も新幹線も取れないようだった。しかしどうしても来たかったようで、深夜バスを見つけて、翌朝到着した。

妹が到着した頃、母はもう昏睡状態であった。酸素が流れる音だけが病室に響いている。私は母の手をにぎり、

「お母さん、あっこが来たよ!」

母は最後の力を振り絞って声を出した。もう目も開かない。

「ごめんね」

最後まで私が言えなかった言葉。ずっと母のせいだと思っていた。私が非行に走ったことも、夢を追えなかったことも。なぜ私はあんなにつらい環境で育たねばならなかったのか。不公平じゃないか。そんな恨みも曲がった考えも、母のその一言で薄れていくのがわかった。

なぜ私たちはすれ違ったのだろう。こんなに愛し合っていたのに。

母はまもなく息を引き取った。最後の最後で謝ってくれた母。不器用ながらに私に愛情を伝えようとしてくれた母。そんな母に唯一できることは私が自分らしく生きること。人のために生きること。

その対象を考えた時、ふと昔の自分の姿が浮かんだ。私と同じように思い悩んでいる子どもたちの手助けがしたい。救いたい。私は誓った。何としてでも子どものために生きる医者になろう。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『腐ったみかんが医者になった日』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。