もしや難病ではないのかもしれない、と京子の身体の一部が無言で迫ってきていた。晴れやかだった。その京子の目を再び見た瞬間、「とにかく、すごいねえ。今は誰にも言わない。でも、……」

と、私は少し躊躇したが、やはり、「今は誰にも言わない」と続けた。本当に震えがくる程の嬉しさに、私は徐々に自分の全身も気持ちと一緒に盛り上がっていた。オウム返しに言った後に涙した。自分が何かを喋ろうとした刹那、また、涙が出た。京子も私の涙を見て、追うようにして涙した。

後から考えると不思議であった。京子の心を揺り動かし、夫婦の安らぎを、神が与えてくれたのかもしれないと思えた。京子自身が身体で表現できる期間が、病気の進行でごく短いであろうことを予測していただけに、なおさら嬉しさが込み上げてきた。

人は生まれた時から死に一歩一歩と近づいているのに、別れることになるかもしれないと気付いた時、突然『妻はなんで死ぬんだろう? 亡くなったなら、いったい何処に行くのだろう?』その時そんな不安さえも消し去ってくれた。地の底から私と妻が這い出す力を、そして、病は必ず治るという忘れ去っていた考えを、なおも呼び覚まそうとしている。

家に帰ると、一層私の心は、期待で一杯だった。これだけは忘れないでほしい。

『京子よ、決して、お前は帰る所を失ったんじゃない。帰る所は、僕の居る、この家なんだ。そのことを忘れてほしくない。手が動き、足が動き日常に戻ろうとしている』

いつの日か諦めてしまった京子との生活が戻ってくるかもしれない。少なくとも、今は妻の心だけでも帰宅させて、一緒に過ごしたい。眠りにつくまでの瞬間が、嬉しくて、小躍りして、自分の心を静めることができずにいた。数回、起き上がり、散らかったままの新聞の束につまずき、水を飲んで、テレビのスイッチを入れたり、消したりしていた。私は眠れなかった。

明日こそは、部屋の掃除をしよう、と思った。資源ごみの回収日を一度忘れると二カ月分溜まる。何でこんなに広告紙が多いのか、腹立たしいこともあった。何かの拍子に、床に落ちた広告のツルツルに足を取られた。そんなことも、今日は思わず笑ってしまった。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『ALS―天国への寄り道―』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。