父親不在が母のチャンス

ここまで父のことをこんなに長く書いてしまったが、実はこれは「母の説法」を書くための前書きのようなものである。

つまり、我が家では元日以外の三百六十四日の大半の食卓には父親が不在だったという事実がわからなければ、母の日々の“説法”が理解できないだろうと思うからだ。

そう、我が家の食卓はほぼ一年中父親不在の“母子家庭”だった。だからこそ母は私たちを相手に自由自在に自分の好きな話ができたのだろうと思う。

もともと母は話をすることが好きだった。“おしゃべり”というのとは違うのだが、話をするのが好きで、しかもなかなか上手な語り手だったので、つい、つい聴いてしまうのだ。

母の話は何も神仏の話だけではなかった。今日あった出来事から、自分の少女時代や親族のこと、父や父の友人たちのこと、父の用事で出向いた先で出会った思いがけない人物やその人のすごい生活のことやら娘時代に大好きだった歌舞伎の名優たちや宝塚歌劇のスターたちの話、新婚時代の抱腹絶倒の信じられないエピソードまでじつにさまざまに話すのだ。

もちろん半分以上は母の信仰心を反映した神様仏様に関わる話だったが、私はこの食卓の母の話で世間のこと、社会のこと、また家族の周辺などまでさまざまに学んだ。

何しろ母の実家の住み込みの職人さんが習っていた小唄の文句まで知ったのだ。

貧しくて、小学校も出ない幼さで奉公に来る子がやがて一丁前の(あに)さんになって小唄を習いに出かける。だが、文字が書けないので「ふーちゃん(節分生まれの母の名はフクだった)、いま、アタシが唄うから文句を書いて」と頼まれて聞き書きしてあげた小唄を唄ってくれたりもするのだ。

♫ 春雨に 相合傘の柄もりして つい濡れそめし 袖と袖……

などという色っぽい文句を、ご飯を食べながら唄って見せたりするのだ。私にとってはじつに楽しい食卓だった。

そうした母のさまざまな話のなかで、私が一番大きく影響を受けたのは、やはり神様に関わる“説法”だった。母の話のなかでも何といっても主流だったのは「説法」と表現するしかないような話だったのだ。