工房の昼休み、太洋が縄跳びを始めた。二人、三人と真似するようになる。クロス、二重跳び、三重跳びと技が入ってくる。賑やかになる。社長が騒ぎ過ぎるなと注意する。二度や三度は歓声が上がる。十八で施設を出されて行き場のない奴らが多い。落ち着くまで上の寮に下宿するのが普通で、五年も居る奴もいる。家賃分を天引きで積み立てることになっている。頭が上がらないから社長には楯突かない。その社長がいっしょに笑っている。

「太洋があれだ。走水のご利益だろう?」

「……まあ、ね……」

って言うか、淳さん効果だ。

「……結婚するって?」

「……わからない……」

「……俺は大賛成だ……金は工面する」

いつもそう言って、そうしてくれたんだ。懐かない俺の方が悪い。それにしても太洋の奴、ぺらぺら喋るようになって。口止めしなかった俺の油断だが。増田ますださんまで俺の顔をわかったように視て、よかったなと言う。

増田さんは親父と同年配で今でも長距離トラックに乗っている。帰ってくると顔を出す。親父といっしょに飲むのが唯一の気晴らし。そのうちにシェルターの隅にレッドロープやダンベルも出現して、雨降りにも十五分の休憩にも誰かがいじっている。

「淳さん、俺に会いたがっていない?」

「いないよ」

「基礎体力ついてきたからね、今にセイルボードで滑りながら手を振ってやるって言っといて」

「もうシーズンオフだ」

「へん。ウェットスーツでやるんだよ。車も欲しい。少し金がかかる。お祝い、気持ちだけにして」

「気を回すな。淳さんは奥床しいから派手なことはしないんだ。言い触らされちゃ迷惑だ。決まったわけじゃないし」

「……へえ、そうなの……チャンスだ! 兄ちゃんが降りても俺がいる。その方がいいよ、絶対。淳さんに言って。メール教えて」

「教えるもんか。莫迦野郎」

糞ったれ。単細胞。薄っぺら。羨ましくなくもないが。

この頃、肉体的な存在感……なんか風圧を感じるし。アパートに独りでいるのが辛いと訴えると、泊めてくれる。今では毎晩泊まる。工房に歩いて三十分で通えるし。居間の東の寝室はアパートのベッドより快適だし。俺がきっとナーヴァスにならないからセックスも疲れないし。浴室が洋風で、細長いバスタブが置いてある、いっしょに浸かるのは至福だ。僕だけ? と訊くと、どこでもあなたといれば。甘美だ。

惚気のろけているのじゃない。夜でも仕事で訪問に出かけることがあるし、休みの日でもなんとか調査だとかって病院や施設に行く。俺は留守番だ。仕事の話はしてくれない。帰ってきたとき、嬉しそうだったり、楽しそうだったり、反対のことも。ドアを閉めて立ったまま泣いていることもある。太洋がああだもの。皮膜じゃなくて……心が、直に触れてしまうんだろう。無防備なんだ。俺はそれが恐ろしい。このままずうっといっしょにいましょう、結婚に拘ることはない。

ずうっと、って何いつまで? 死ぬまででなきゃ、絶対に。紙切れ一枚の届けがそんなこと保証できる? 勘違いよ。室町の母は、この人は、ここの母とか室町のとか使い分ける、養女をわざわざ意識させる、それができるのは相手を思う気持ちの強さだけだと言った。その気持ちが持てなくなったら、結婚も家族も形骸。衰えて形骸に縋るようになるんだわ。

絶望的な悲観論だ。よくわかるけど……あなたがそうなるのなら……あなたでもそうなるのなら、僕の方があなたを想い続けるしかない。自分に酔って口走る言葉。誓う、とか。自分が一番騙しやすい、騙されやすい。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『フィレンツェの指輪』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。