私の味方だった祖母

父方の祖母は、お嬢様育ちでした。お手伝いさんのいる家で、なに不自由なく育ちました。だからなのでしょう、いわゆるお姑さんの嫁いびりのようなことは一切しませんでした。とても穏やかで、母にも私にも優しい人でした。

祖母が若いころには、父を含めて実子に対しては、少しきつい母だったようです。祖母は私が学校へ行きたくないといったとき、両親が反対するなかで一人だけ味方になってくれた人です。

「学校へ行きたくないなら行かなくてもいい、その代わりなんでもいいから大好きなものを持て」と教えてくれました。祖母のこの言葉が、私が文章を書くようになった礎です。

祖父母は二人とも長患いはせず、祖父が89歳で祖母が80歳で逝去しました。子だくさんの時代に生まれた私の両親は次男と三女なので、親の老後についてそれほどの責任もなく、お陰で両親は看護も介護も知りません。祖母には覚悟があったのでしょう。母に、

「私はこれが最後の入院になる、今までありがとう」

「息子と孫を護るから」

といい置きました。母は、「私のことは?」と思ったそうです。私は両親を介護しているあいだ、「おばあちゃん助けて」と何百回祈ったかしれません。子に対する愛情と、孫に対する愛情は違います。私は祖父母と同居している家で育って、本当によかったと思っています。祖父母が私を大切にしてくれたから、両親を看取れたと感じています。

私は先年、先祖代々の墓を移転するために、墓終いをしました。墓終いの前に、お骨を取りに行ったとき、祖母の骨壺だけ、まったく水が入っていませんでした。「長いあいだ、外の霊園墓地のお墓に入っていたのに珍しい」と管理の人も驚いていました。

骨壺に水が入っていなかったのは、祖母も私の元に帰りたくて、私が迎えにくるのを知っていて、それを待っていてくれた「しるし」なのだと思います。亡くなっても気持ちは通じていたのです。お墓のなかのほかのご先祖様に「もうすぐ孫が迎えにくるのよ」と自慢していたのです。

祖母の遺骨は、沖縄の洗骨屋さんに送って洗骨してもらい、私が契約した納骨堂で両親と3人、私が行くのを待っています。私と祖母と両親と、4人で永遠の眠りにつくことが、私の最後の望みです。