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夢への一歩

長女を出産して3年後、次女を出産した。次女の妊娠中も、暇が嫌いな私は、次は何の資格を取ろうか、と悩んでいた。今後は人生にプラスになるような資格がいいな。

2人目の出産も前回お世話になったマロン先生にお願いすることにした。彼女と会うたび、やっぱり医者になりたい、という気持ちが抑えられなくなっていった。当時の私は23歳。まだ若いし、やってみようかな。昔主治医だった小児科の神代先生も、私ならやれるって言ってくれてたしな。

行動力はある方だった。後先考えないところは昔も今も変わらない。普通の人なら、医学部はお金がかかるし、受からないかもしれないし、といろいろ考えすぎて、受けることをあきらめるのだろうが、私は違った。落ちるかもなんて、そんなのやってみないとわからないし、本気で頑張れば受かるんじゃないかな、なんて思っていた。「根拠のない自信」がなぜかあった。

とりあえず近くにある医大の赤本(過去問や大学の概要が書いてある)を買ってみた。

「んー。全くわからん」

解説を見てもその漢字も読めないし、中学校の授業もまじめに受けていないやつが解き方なんてわかるはずもない。ただ受験資格や試験方法なんかは参考になった。私は漠然とした目標をたてた。社会と理科と国語は高校範囲からやろう。数学と英語は高校からだと厳しいな。授業覚えてないもんな。とりあえず数学から始めるか。

私は公文式の通信教育で中学の範囲の数学から始めた。朝はコンビニでバイト、昼から勉強、夜は子育て。勉強を始めてみたのはいいが、妊娠中はとにかく眠い。そして机に座る習慣がないので、落ち着かない。

まずは机に座る練習からした。1日2時間は座る。そのうち座れるようにはなったが、問題を広げても別のことを考えたり、居眠りしたり。集中力がまるでない。

ある日、バイトに行く前に不正出血に気づいた。病院を受診したところ、切迫早産だったようでそのまま入院になった。

セブンイレブンの店長はとても温かい人で、旦那さんも寡黙だが優しい人だ。夫婦で経営しており、忙しくて人が足りない時期なのに、私の身体を気遣ってくれ、快くシフトの調整をしてくれた。産後お店にはちょくちょくお世話になるが、医者になったことを心から喜んでくれ、私の人生を応援してくれている。

入院中はトイレとシャワー以外はベッド上で過ごさなければならなかった。隣のベッドには同じく切迫早産で入院している人がいて、彼女は妊娠初期から入院しているとのことだった。しかもトイレや食事で身体を起こすことさえ許されなかったようだ。彼女と比べたら私なんて気楽なもんだ。

せっかく頂いた時間、有効活用しよう。日中は毎日ベッド上で公文式の数学を解いた。それを不思議そうに助産師さんたちが見にくる。

「医学部に行きたいんです」

「そっか。頑張ってくださいね」

そう言ってはくれたが、多少馬鹿にされた感じだった。それもそのはず、数学は他の教科より得意だったとはいえ、受験のためにきちんと1から復習したかったので、私は中学1年生で習うような簡単な計算問題を解いていた。バスケットボールを始めたばかりの小学生がNBAに出たいと言っているようなものだ。さぞかし呆れたであろう。

そんな中、1人だけ真剣に話を聞いてくれた助産師さんがいた。彼女の名前は石山さん。不思議な縁で、今でも彼女と交流があり、彼女の甥っ子、姪っ子の家庭教師をすることになる。切迫早産での入院は1週間程度だった。

その後の妊娠経過は安定しており、次女も無事に出産できた。次女の出産はドラマチックだった。陣痛がきたので病院へ向かうと、陣痛は弱くなっていた。病院内の階段を上ったり下りたりを繰り返したが、陣痛は完全に止まってしまった。

近くのデパートに散歩に行き、店内をぐるぐる歩いていると、急激に陣痛が進んできた。病院へ急いで戻り、陣痛室に入った。担当してくれたのは、私が医者になるのを応援してくれたあの石山さん。出産日なんて予想できないのに、すごいめぐり合わせだ。

陣痛はどんどん強くなったが、私は痛みに強かったので、限界まで彼女を呼ばなかった。彼女を呼んだ時、ちょっと遅かったのか、分娩台まで歩く力さえ残っていなかった。彼女にかかえられ、分娩台に乗るや否や、頭が出てきたのがわかった。マロン先生を呼んでくれたが、間に合わなかった。先生が到着した時には、ケースの中から元気な女の子が先生を見ていた。

「せんせー。我慢したけど間に合いませんでした~」

私たちは笑った。2人出産したが、一度も痛いとは言わなかった。出産は確かに激痛だが、心の痛みと違って耐えられるものなのだ。そして出産の痛みの後には大きな喜びがある。つらさなんて感じなかった。私に安心感を与え、私らしい出産に協力してくれたマロン先生、石山さん、そして退院まで育児指導をばっちりしてくれた助産師さんたちに心から感謝している。

後日談だが、分娩台に上がった時、もう次女の頭は出てきていて、プハーと呼吸していたらしい。先生が来る前であり、分娩による合併症の恐れもあったため、石山さんが一旦押し戻したのだとか。おもしろすぎる。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『腐ったみかんが医者になった日』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。