身投げ説法 白隠和尚の風神雷神コーチング

◆むかし 酒井抱一という絵師がいた

「風神雷神」の屏風絵を描くようにと 頼まれた

風神と雷神 さて それはどんな姿をしているのでしょう 中国には古くから星座をはさんで太鼓を巡らせた雷公と布をひろげた風伯の天井画があり 京都には三十三間堂の千手観音二十八部衆のなかにその降魔像があります 一方 俵屋宗達の風神雷神があり それを模写した尾形光琳の風神雷神もあります

「これでいこう!」と絵師は考えました

ほかの仕事をぜんぶことわって 彫像の模写から始めました 模写はうまくいきましたが 模写は模写ですそこから先には一歩も進めません 不甲斐ない自分への腹立ち 落胆 自己嫌悪― 想い悩んだ末に知り合いで世話好きの白隠和尚のところに一升瓶ぶらさげて相談にいきました

◆「どうれ」と白隠はひと睨みして いいました

「ヒトマネするなら絵師なんかやめろ

だいたい 風が吹いて来ないぞ 雷も鳴ってないぞ 生きてる神さんがいないぞ」そして

「ここへホンモノの風神雷神をつれてこい!」と一喝して

庫裏に引っ込んでしまいました

◆二度目 白隠はモノもいわず 「素描」を破り捨てました

そして三度目…

どうれ 風神雷神つれてきたかの

まんだ

雲の上から

返事がねぁだとね

声が掛からねぁだかね

そんだから模写しかできんとかぇあ

かんだるいこっちゃね

あおみゃの神さまてあ

お堅いもんずら

四十五度上にらんで頼んでみても

まんだ姿も見せてもらえないのかえや

そんだから誰かが考えた画像をなぞってくるしかねぁだとな

そんなもん風神雷神じゃあない 風も吹かず雷も鳴らず生きてもいないわい

そんなもん誰がみても魂消もしないし元気にもならないのお

南無大慈大悲広大霊感観世音菩薩

ほんとの神ホトケは

庭前のハクジュ

クソカキベラ

ヤオヨロズ

猫っこにも犬っこにも薪たんぼにもそれは何処にでもいるであに

もちろんそなた自身のなかにもいるであに

こころ澄ますなら広大な霊感をば

いつもどこでも受取れるであに

だが五欲に曇った眼

常識の染みついた耳には

観ようとしても観えず聴こうとしても聴こえぬぞ

この顔はなんじゃい

口元の卑しい薄笑いはなんじゃい

これは風神雷神じゃない お前自身のバカ面じゃ

相手をバカにしてるのかねvそれともそれほど己がバカなのかね

目には心があらわれる この二人像には心がない ただ虚しいだけじゃ

絵には対象の心があらわれる 花には花の石には石の人には人の

その心―その魂を描き出さずに何を描くのかえや

抱一よ お前はいったい何を描いてるのかね

雪舟 若冲 蕭白 等伯 円空 木喰

その作品をじっとみていなされ

じっとこっちがみられているような気がしないかね

奥の奥の方から呼ばれたような気もするのではないかね

それは生きてる命だからの 魂消ることもない

雪舟の磐 等伯の松 若冲の鶏 あれは絵描きが描いたのではないぞ

磐が磐を松が松を鶏が鶏を絵描きの筆で描いた

あれらは命と命の協働の仕業なるぞ

だからこそみるひとの何かを変えてしまう恐るべき呪力である

確かに若冲は写生が大事と

現実にあるものを写生して鶏を描き魚を描き野菜を描いた

だがその鶏や魚や野菜はこの世とあの世を生きるいのちとして描写されたのだぞね

絵師が蛙にも巻貝にも鮃にもなりその仏のいのちになりきって

その生きる悦びを内側から描いているのだぞ

いのちとは生きて死ぬ己一個のいのちではない

過去現在未来 世界のあらゆる存在とつながり生きるいのち

その巨きないのちの流れに乗ったり降りたりして絵筆を握るのが絵師の日々よ

まだ絵師がひとりで

本物の絵を描けるとでも思っているのかえあ

あまいあまいのお

木の絵を描くのは木のいのち

川の絵を描くのは川のいのち

恐ろしい景色は恐ろしい景色のいのちが描く

やさしい微笑はやさしい微笑のいのちが描く

確かに手が動いている

絵師の手も動いている

だが絵師の手は描かされているだけぞね