「私は……なんだか知っている建物があるなと思って」

「どこだと思う?」

そう訊かれて私は辺りを見回しながら、大急ぎで記憶を手繰り寄せた。

「私が生まれた病院……」

「よく思い出したね。そう、ここはT区のI病院だ」

よく思い出したね、という言葉で思い出したが、生まれて以降は、私はこの病院に来たことは無い。何故、I病院だと分かったのだろう。

「で、神﨑さんは何故こんな所で受付なんかしてるの?」

「俺も、ここで生まれたから」

「あなた、鹿児島でしょ」

「生まれたのはこの病院なんだ」

「ふうん? だからって何で受付をやるのよ」

「まあ、いいじゃないか。ちょっと見学していく?」

私は、待合室を抜けた所から延びた廊下の方を見た。廊下の奥は暗くて、どこまで続いているのかさえ見えない。そのブラックホールのような廊下の向こう側から、誰かがやって来る気配がする。私は、その誰かは、きっと女性だと思った。そうして、その人と顔を合わせてはいけないような気がした。

「いいえ、結構よ」

「その方がいいね。ところで海人からプロポーズされたかい?」

「まだよ。何であなたがそんなこと気にするのよ」

「海人は君の結婚相手として相応しい男だからね。安心してプロポーズを受けるといい。これ結婚祝い」

と言って静真が差し出したのは、なんと、あの海に溶けた『秘密の花園』だった。

「なんでこれを……どういうことよ」

「探しておくって、約束したじゃないか」

「約束……?」

「忘れちゃった? まあ、無意識界でのことは、目が覚めたら忘れることが殆どだからね」

「約束って、あれは、夢の中でのことでしょ」

「なんだ。覚えているんだね」

あの白い砂浜での静真との会話は、目覚めてからは殆ど覚えていなかった。それが今、静真の顔を見ているうちに、一言一句、思い出した。「探しておくよ」と言われて安心したことまで思い出したが、今は安心どころか、恐怖を感じている。

静真がその本を何処でどうやって拾ったのか、気にならなくはないが、訊くのが何となく怖かった。

「で、受け取ってくれる?」

「……いらない」

「仕方ない。今回は、これは俺が持って帰ろう。今日は楽しかった。我ながら上出来だ」

「上出来って何が?」

「僕らは眠っている間に見る夢を、それぞれ個人のものだと思っているけれど、本当は夢の世界は皆繋がっているんだ。俺は子供の頃から、意識を持ったまま夢の世界をさ迷うことが多くてね。でも、自分の意思で動くことは殆どできなくて、本当にただ流されるようにさ迷うだけだった。迷子になって二日間くらい目が覚めなかったこともあるよ。最近やっと、自由に動くことができるようになったんだ。この間は九歳の君と話ができたし、今日は今の君と話ができた。夢の中で会話するって、なかなか難しいんだよ」

「まるで、ここが夢の中であるかのような言い方をするんだね」

私は、静真の話を馬鹿々々しいと思いつつ、本当に今自分は夢の中にいるのかもしれないという気もしてきた。なんだか足元がぐらついているような、変な感覚だ。

「それじゃあ、結婚祝いは何にしようかな」

「何もいらないってば。あんたにお祝いなんかされたら、かえって縁起が悪いわ」

「あはは、ずいぶん嫌われちゃったな。まあ、俺と会うことは二度と無いだろうから、安心してよ。近いうちに海人がプロポーズするだろうから、きっと承諾してやってくれよ。あいつとなら、きっと幸せになれるからね」

「言われなくたって幸せになるんだから、あんたはさっさと消えてよ」

「そうだね。それじゃあ、末永くお幸せに」

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『夢解き』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。