この蕎麦屋は、夫婦で切り盛りしていた。老爺が蕎麦を作り、老婆がその蕎麦を客に出しているのだ。麻衣はその蕎麦屋に入って行った。昼前だったが、かなりの人数が入っていた。

近所の町人や、どこかで働いている人たちらしいのが、皆おいしそうに食べている。かけそばを注文して待っていると、隣の若者が大きな声で話しているのが聞こえた。

「最近、こんなにびっくりした話はねえやな」

「何だ、何を聞いたのだ」

すぐ前の若者の、同じ仕事をしているらしい人が言う。

「虎谷屋だ! ここに泥棒が入ったとよ」

「ええー、あんなに堅固な戸締りをしている店にか」

「そうだ!」

周囲の、蕎麦を食べていた人たちも聞き耳を立てている。

「それもよ、昨日の夜は何でもなかったのに、今日朝見てみれば、蔵の戸が外され、中の小判が持って行かれちまったって」

「へえー、そんなことがあるのか?」

「だが、誰も知らなかったらしい」

「誰も知らぬ間に、取られたのか?」

「そうなんだ」

皆不思議そうにしている。蕎麦がきた。アツアツのかけ蕎麦だ。麻衣は箸を取ると、蕎麦を食べ始めた。

「ふーん、虎谷屋に入るとはたいした泥棒だわ」

と思って聞き耳を立てた。

虎谷屋と言えば、この間、町の人に紙を半額で売ったと言う評判の店だった。今、紙は値上がりを続けており、町の人たちは、中々買えなかったのだ。その時、虎谷屋は紙を大量に仕入れて、皆に半額で売ったのだった。

虎谷屋は、町の人思いであると、評判が立ったのである。そこへ泥棒が入ったのだ。麻衣は蕎麦を食べ終わって、貝を肩に担いで表に出た。

「何だか、変な感じね」

今聞いた話を、また思い浮かべるのだった。

虎谷屋は、金だけが盗られて誰も傷つけられなかったそうだ。そして誰もその泥棒を見なかったと。

虎谷屋の本職は両替屋だ。それが紙を売ったり、泥棒に入られたり、評判になっている。

これは調べて見なければ、と麻衣は思った。