悲の断片

第一節 母の思い出

一九七三年の春まだ浅い頃、学生だった私は東京から長崎を旅した帰途(きと)、山陰路に入って、母の住む倉吉に立ち()った。母はこぼれるような笑みを浮かべて私を(むか)え、私が一泊した翌日、別れを惜しんで、(はな)(がすみ)(けぶ)る打吹山の桜の園に私を(いざな)った。その日は春一番にも()た強い風が吹いていて、(おびただ)しい桜の花びらが流れるように風に舞い散っていた。

私は母と一緒(いっしょ)に公園のベンチに(すわ)って、体が(こご)えるまで桜の並木を見て()ごした。その頃の私はと言えば、学生運動から落伍して、東京の(ちまた)に息を(ひそ)めて暮らしていた。かつての仲間が惨殺(ざんさつ)されたというニュースを、背中で聞き流しては心を(こお)らせた。そんな心の(やみ)を桜の花吹雪が吹き抜けていった。

満開の桜は風にそよぎながら笑っているようにも、泣いているようにも見えた。()り注ぐ花びらが流れ落ちる涙のように見え、死んだ友の亡霊(ぼうれい)がその中に浮かんでいるようにも見えた。私はいつになく感傷の涙を流して桜に見惚(みと)れ、そして、生まれて(はじ)めて、桜を(うつく)しいと思った。

そんなことがあってから数年()ったとある秋の日の夕暮れ、私は東京の下宿を引き払って、母の()る倉吉に住み着くために帰郷した。

母はそんな私を不思議なほど無表情に(むか)えた。私が帰ってきた理由がわからなかったのだ。しばらくして、母は読書に勤しむ私を山歩きに誘い出した。

小春日和(こはるびより)のやわらかな秋の日射しが、木々の枯葉を()かして、幾筋も地面に()り注ぎ、その(まだら)模様(もよう)日溜(ひだま)りが、風のそよぎと共に揺れ動いた。そんな木洩(こも)れ日の群れ遊ぶ山際(やまぎわ)の小道を、母はタッタッと()け上がって、少し小高くて平らなところまで登り()めると、はじけるような声をあげて笑った。

「まだこんなに若いのだ、まだこんなに元気なのだ」と、()せてみたかったのだ。しかし、その笑顔が私の(おぼ)えている母の最後の笑顔となった。私は読書に没頭して、母のことなど気にも()めなかったし、そんな余裕もなかった。

それでも母は私を好きにさせて、文句の一つも言わなかった。そして、私を(たす)けようとするばかりだった。無論、私はそれを(かえり)みることもなかった。

やがて、私が仕事に就くと、益々(ますます)そんな傾向に拍車が掛かった。かてて(くわ)えて、私は自分の人生の屈折を、酒なしには()えることができなかった。三十代で酒量が増し、四十代で障害が出始めた。いつしか、外の世界が(うと)ましく、(いと)わしいものになって、私は虚無の壁に囲まれた自分だけの世界で、酒に(ひた)って生きるようになっていた。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『 追憶 ~あるアル中患者の手記~』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。