巡礼 水戸騒動

宍戸藩の頼徳と、その家老として処刑された山中新左衛門の墓を訪ねたのは、11月の末であった。頼徳の墓は常陸太田市瑞竜山の水戸家の廟所にあり、新左衛門のそれは水戸市の常磐共有墓地にあると聞いていた。

まず瑞竜山に向かう。最近、上野駅まで行かなくとも品川駅で常磐線の電車に乗ることができるようになり、便利になった。水戸駅で水郡線に乗り換え常陸太田駅に着く。廟所は駅のほぼ真北5キロほどの所にある。休日ということもあり、バスの便はない。駅の観光案内所では「行っても門が閉まっていて入れませんよ」と言われたが、「門前まで行けばいいのです」と歩き出す。

片道5キロ往復10キロ、1万5千歩、どうということはない。丘陵地に近づくと、木々の葉の色とりどりの枯色の配列が美しい。蒔絵の工芸品を思わせる。赤色の混じっていないのが却ってよい。

少し丘を登り廟所に着く。確かに高い柵の門が閉まっている。柵の外から見上げる廟所は樹木のない小山の南斜面の上から下まで、歴代の藩主の墓が遠く近く諸所に点在して見える。それぞれの墓石の石組みが正午の日の光に輝いている。明るい墓地である。

門前の案内板に本藩の歴代藩主の墓の位置は示されているが、支藩の藩主であった頼徳の名はない。多分案内板に「一族の墓」と示された地区にそれなりの墓があるのだろう。その地区があると思われる辺りをしばらく見上げて帰途に就く。

門の右手の竹の小叢が時折風に揺れ微かに音を立てる。どこかでキウイー、キウイーと鳥がひっきりなしに鳴き騒いでいる。それにしても頼徳はどうして死なねばならなかったのか。当時、騒動の鎮静化のためには慶篤自身が乗り出すべきだとする意見があったという。慶篤が水戸に行っていれば、事態が異なった展開を見せたであろうことは確かである。

しかしその頃将軍が京都に呼ばれていたので、慶篤は将軍の代わりに江戸に止まる必要があったという。慶篤が将軍の留守を預かるほどの地位にあるのであれば、なぜ慶篤は頼徳に対する幕府軍の攻撃を止めたり、頼徳への切腹の処分に抵抗したりできなかったのであろう。

慶喜・慶篤というのは、どうにも不思議な兄弟に思える。