1868年1月3日の鳥羽伏見の戦いは、この状況を一変させた。京都には以前から朝廷の命で、特に慶喜が禁裏守衛総督になって以後は慶喜に従って、京都の守衛に当たって来た水戸藩士が300人ほどおり、本圀寺を宿営としていたことから本圀寺派と呼ばれていた。ほとんどは鎮派に属していたものと思われる。

鳥羽伏見戦後、彼らは朝廷に、東帰して奸人を討伐したいと願い出、藩主慶篤宛の除奸の勅書を手に入れた。総勢220人余、家老の鈴木縫殿に率いられた彼らは、1月20日に京都を出立、2月10日に江戸で慶篤に勅書を渡した。江戸藩邸にいた市川派は、これを知って水戸へ逃れた。

3月、水戸で反保守派の有志が決起、市川らは追われて会津へ向かった。鈴木は水戸に入ると、市川追討軍を編成してこれを追ったが、途中でいったん水戸に戻った。慶篤も病を押して水戸に着いたが、4月初めに死去した。

慶篤を継ぐことになる昭武は当時フランスに留学中で、この多難な時期を、この後昭武の帰国する11月まで、水戸藩は藩主不在で過ごすことになる。市川らのいなくなった水戸では、今度は市川派への復讐の嵐が吹き荒れる。

特に西上に加わって敦賀で幽囚の身にあった耕雲斎の孫の武田金次郎が、朝廷から奸徒一掃の命を受け、西上組の生残りを引き連れて帰藩すると、江戸藩邸、水戸を問わず、暗殺、逮捕、処刑、入牢などが続き、藩は暗黒の世界となった。

保守派の筆頭鈴木重棟は市川たちと別れて江戸で潜伏中を捕らえられ、斬罪梟首となったが、今度はその子二人、8歳の兄とその弟が斬られている。市川らは、会津から越後に移り奥羽越同盟軍に加わって戦ったが、敗れて会津に退き、会津の落城時には会津の南、田島村にいた。

一方水戸藩では、改めて市川追討軍を編成して越後まで行ったが、市川らを捕らえることができず、こちらも新政府軍に組み入れられて戦うことになった。かくして水戸城の守備が手薄になっていることを知った市川らは、城を乗っ取るべく水戸に向かった。

10月1日、水戸城三之丸の藩校弘道館に入り込んだ市川勢と城に残っていた藩兵との間で激しい戦闘となったが、城方はよく防ぎ、市川勢は多くの死傷者を出して退散、日ならずして消滅した。市川派の朝比奈はこの戦いで戦死、佐藤はそれ以前に越後で病死していた。

市川は、さらに逃れて東京に潜伏していたが、翌年2月に捕らえられ、4月、生晒しの上、逆磔に処された。市川派への処罰はこの後も続き、派閥抗争の余震は長い間残っていく。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。