【関連記事】「病院に行って!」背中の激痛と大量の汗…驚愕の診断結果は

幕末維新時の水戸騒動

11月1日、武田耕雲斎を総大将とした一行は、大子を出発、西上を開始した。幕府からは途上の藩に討伐命令が出ており、一行はできる限り各藩との衝突を避けようとジグザグのコースをとった。

各藩も幕府の目は恐れながらも、戦闘は避けようと、城下に通じない間道を案内したり、一行が通り過ぎてから空砲を放つといった行動をとった。このため実際に戦闘があったのは、下仁田での高崎藩兵との戦いと、和田峠での松本・高島両藩兵との戦いのみであった。

しかし、飯田藩を通過するに際しては、気の毒な事件が起きた。11月25日に上清内路村に宿泊した一行は、翌日、清内路峠を越えて馬籠宿に向かった。清内路峠には関所があり、飯田藩が幕府からこれを預かっていたが、争いを起こしたくない藩は、一行を黙って通過させた。

このことはほどなく幕府に知れた。飯田藩は、12月に封地を2千石没収され、藩主には逼塞が命じられた。そして翌年には、当時関所役人であった斉藤長左衛門と合田肇が処刑された。天狗党の一行は、さらに飛騨から越前へと進んだが、時はすでに厳冬で、山越えの険路を身を没する雪を分けて、重い大砲を運びながらの行軍となった。

峠を越えて越前領に入っても、沿道の人家は、利用できないよう、全て焼き払われており、夜営も雪中となった。それでも寒さと飢えと疲れに苦しみながら、敦賀の新保宿まで辿り着くことができた。しかし、そこで彼らを待っていたのは、頼るべきはずの慶喜が、自ら天狗党討伐に出陣して来ているという報せであった。

12月17日、進退に窮し、精も根も尽き果てた一行823人は、加賀藩に降伏した。1865年1月、一同は加賀藩の手から幕府に引き渡された。取扱いは劣悪になり、幕府は彼らを敦賀浜町にあった厳寒の鯡蔵(にしんぐら)に監禁した。が、それも束の間、2月1日に敦賀に着いた田沼は、2月4日には早くも武田耕雲斎以下24人を斬首に処した。

2月15日から23日にかけて、さらに328人が斬首された。処刑前に鯡蔵で死んだ者も少なくなかったという。他に、137人が遠島、187人が追放、130人が水戸渡しとなった。斬首された者の内、武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門、藤田小四郎の4人の首は、水戸に送られ、城下を引き回された後、梟首され、最後は野捨てにされた。