笑顔と大根で

家に入ろうとマンションの自動ドアの前に立ったとき、出ようとする女性がいた。私より十歳ほど年上の七十代後半とお見受けした。彼女は「お先にどうぞ」と避けて下さった。私も「どうぞ」と避けたのだが、こういうことって、お互いタイミングが計りにくい。思い切って「すみません」と私は先に入った。

この人とは前にもすれ違った。このマンションを見に来たときである。それまで見ていた新築物件は係の人がいつもいて、造り、間取りなどを確認できた。でもここは築十二年の中古である。前日不動産屋に案内されただけで、この日は中に入ることはできない。決めかねて外から眺めていた。

今までは聞きかじった知識で、N値(地面の硬さを表す単位)五十のところにコンクリート杭が届いているか、などということばかり気にしていた。現実に工事を確認できるわけもなく、不安を掻き立てるだけだったのだが。中古マンションにはそんな説明がない。

玄関を眺めていると、この奥さんが出てきた。私はベランダ側に回った。でも裏からも洗濯物をじろじろ見ているようで、それも怪しい人と思われかねない。

駅に戻ることにした。向こうからさっきのあの奥さんが歩いて来る。ほとんどグレーの髪を後ろで一つに束ね、細面の顔に眼鏡。買い物袋から大きな大根が一本覗いていた。どんな風に使い切るのだろう。煮物にして、サラダにして、おろしにして、あるいは漬けるのかな。でも一本丸ごと買う奥さんがすてきな気がした。

すれ違うとき歩道が狭かったので、車道に下りて「どうぞ」と会釈した。彼女も「ありがとうございます」と笑顔を見せて通り過ぎた。

大根一本丸ごと買う暮らし。笑顔の穏やかな十二年の暮らしが思われた。それは大切なことだ。次の十二年も平和な気がする。このとき、このマンションを買おうという気になったのである。

奥さんは私の決意を知らないし、私も彼女の名前を知らないのだけれど。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『午後の揺り椅子』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。