いつの間にか、神様は己の生きざまを語っている。私は、話を本筋に戻そうとした。
「夏落葉を見ていると、自分の人生を思い起こしますが、楽しいだけでない、忘れたい事柄もありますよね」
「忘却とは忘れ去ることなりというぞ。忘れるとは記憶を消すことだ。君は、消すという行為を、どのように行うか」
「いろいろな方法があります。墨で塗りつぶすとか」
「終戦直後の教科書か。古臭いな。他に」
「パソコンならば消去キーを押す」
「機械的に瞬時に消えて、詩的でない」
「修正液を消したい箇所に塗る」
「それは見えなくなるだけで、修正液をはがせば残っているだろう。完全に消さねばならない。例えば、消しゴムで消すとか……」
「切り抜いてしまう」
「それでは、穴が開いてしまうだろ。ほら、あるだろう、消しゴムでごしごし消すとか」
神様が消しゴムを二度持ち出したので、私の頭に浮かんだことを口にした。
「もしかして、韓国映画の『私の頭の中の消しゴム』をご覧になっていませんか」
「ノーコメントだ」
「韓国ドラマ『愛の不時着』で人気の女優、ソニェジンが主演した映画ですよね」
「はて、ソニェジンとは」
「申しわけありません。ネイティブな発音でしたね。日本語式発音ではソン・イェジンですね。つい、韓国語中級の教養が出てしまいました」
「君は、私をおちょくっているのか」
「とんでもありません」
「君と遊んでいる時間はない。『消しゴムで消したき日あり夏落葉』といったところかな」
神様はその一句を残して、煙になって消えた。私が、少しご機嫌を損ねてしまったのは、久保田万太郎の姿をした俳句の神様だった。それにしても、昭和三十八年に亡くなった久保田万太郎が、評判の韓国映画やドラマを知っていることに奇異な感じがしたが、神様ならあり得ることなのだろう。
今回の先生とは、漫才の掛け合いをやっている気分だった。洒脱な先生で私生活の一端まで語ってくれたりしたので、リラックスして授業を受けられた。消しゴムで人生の嫌な思い出を消すという表現に、私はうなってしまった。俳句の表現方法は自由で何でもありなのだろう。
消しゴムで消したき日あり夏落葉
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
久保田万太郎