日常の生活の中で全く何気なしにいつもの生活習慣というか、惰性でなにがしかのことを頭で考え、体も動かしているという自覚はあるのだが、どういうわけかポッカリ時間が空いてしまったというような気持ちを持ってしまうこともある。

時間というものは経過していくものだから結果として考えること、為すこと、全て空しいということに行きついてしまうのだろう。

エアポケットに入り込んでしまった飛行機に乗り合わせてしまい、手持ぶさたでいる時、日常の些事といったものとの関連を失って考えたり体を動かしたりする意欲も完全に萎えてしまっているなと、感覚だけでつかんでいるのと同様のことなのかもしれない。

来栖の場合、それは日々の生活から切り離され、抽象化の一途を辿ることが多く、過去の思い出とか未来への何とはなしの希望や願望に想念が行きつく場合には、多少なりと自身の思いに輪郭といったものが形造られているような気がする。

ところが自己の想念から抽象化され、そこから概念だけがまず出てきてそれに固執してしまい、その後でやっと想念が結実して具体的に体験やイマジネーションとして出てくる場合もある。

母親が死んだ直後には、死を内に抱え込んでしまっている日常生活に完全にとらわれてしまっているという自覚から彼は逃れられない時期もあった。