この年も6月、諸生と共に南上した市川が江戸藩邸の武田耕雲斎らの激派を駆逐して保守派の政権を樹立したが、7月早々には、市川らの後を追って南上してきた榊原新左衛門らの諫言によって、今度は佐藤図書、朝比奈泰尚ら保守派が江戸を追われ、鎮派の政権が成立した。

市川はこの時幕府軍と共に筑波勢の掃討に出ていたが、下妻での会戦に敗れて江戸へ帰る途中、水戸に向かう佐藤らに会って江戸での政変を知り、一緒に水戸に戻って再起を図ることにした。

水戸に戻った市川らは、江戸藩邸に対抗して「水戸政権」を立てると、鎮派や激派の人間をあるいは殺戮し、あるいは投獄し始めた。その妻子も捕らえられ、虐待された。

この暴挙に驚いた江戸藩邸では、支藩である宍戸藩の藩主松平頼徳を鎮静化のため水戸へ派遣することにした。

8月初め、頼徳は江戸を出発した。頼徳には宍戸藩兵数十人の他に、榊原ら鎮派の数百人が従っていたが、途中から、江戸藩邸を追われていた武田耕雲斎らの一行なども加わって、水戸に着いた時には3千人あまりの軍勢に膨れ上がっていた。

筑波勢も、その家族が虐待されていることを知ると、水戸へ進軍し始めていた。

8月10日、頼徳は水戸城に入ろうとしたが、市川らは、頼徳一人の入城は認めるが随行している者の入城は一切認めないとしたため、鎮静のためにやって来たはずの頼徳一行と城方との間で戦闘となってしまった。

さらに、市川派が、筑波勢討伐に来ていた幕府軍に助勢を求めたため、頼徳は幕府軍とも戦うことになってしまった。

戦闘は那珂湊方面で続き、頼徳側には筑波勢の加勢もあったが、次第に頼徳側に不利となった。

幕府軍と戦うことをよしとしない頼徳は、釈明のため幕府軍の陣営に赴いたところを捕らえられ、10月5日には切腹を申し付けられてしまった。頼徳に従って幕府陣営に行った宍戸藩士もことごとく処刑され、宍戸藩は取潰しとなった。

10月下旬には、榊原の率いる鎮派も、幕府軍と戦うことに悩んで降伏し、佐倉藩などいくつかの藩に分散して預けとなった。

武田らの激派と筑波勢など1千余人は、大子方面に逃走したが、その後も市川勢に追われ、このため軍議の結果、当時禁裏守衛総督の地位にあった徳川慶喜を頼って京都に赴き、朝廷に攘夷の志を伝えようということになった。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。