なんだよ、吃るどころか能弁だ。目の前の突然変異にギョウテン。仰天。俺たちは海を知らずに育った。と言うか、普通の子供の遊びを知らずに育った。そう言うと親父が気の毒なことになるんだろうけど。最短距離で南下して横須賀街道に入り、やがて潮の匂いもしてくる辺りで軽食と買い物をする。太洋が淳さんに付きまとって、上機嫌をいいことに散財させる。

「いい気になるな。二度と誘ってやらないぞ」

淳さんには、家教えちゃだめだからね、と耳打ちする。気が気じゃない。(はしり)(みず)に決めた。海の家がなくなって寂しくなったが浜は変わらない。鷹原兄弟は知らないから、海辺というだけで驚いている。パラソルを立てたり折り畳み椅子を並べたりしながら太洋は、すげえ、テレビで観るのと同じだ、って興奮する。兄の方はちょっと無口になる。

東京湾だから、大きな船も沖を行く。釣り船も出ている。水平線から(みなぎ)る潮がいつしか(ひだ)になって汀なぎさに寄せて砂地に白い縁飾りを作り、(みな)()を残して引いていく。繰り返し繰り返し。セイルボードが赤と黄の帆を膨らませて滑る。

「あれ、いいね。俺、あれ始めようかな」

「ま、今日は海に浸かろう」

車の中で脱いで、下に着ているから

「淳さん、ビキニならよかったのに」

「おばさんに何を生意気な青ひょうたんめ」

大きい頑丈そうな浮き輪が二つ。ビーチボールがたちまち膨らむ。砂を走って波に躍る。恰好つけるものだから、冷たいの塩っぱいの、鼻に入ったのやれパーフェクトストームだの。プールより浮くからね。

淳さん、淳さん。八汐は伏目をもっと細くして淳を視る。

「八汐の海」

震えるくらい寒くなってから上がる。唇が紫色。車のポットに甘酒がある。太洋が駆けていく。

「砂風呂に埋めてあげる」

抱いて温まろうとしたのにはぐらかされる。大胆でいいんだろ、ビーチは。真似して温もった砂を掘る。砂を両腕で掻き出す淳の丸やかなところが揺れている。わざとぶつかる。知らん顔している。

甘酒で一息して、三人で埋まる。

八汐が真ん中を取ろうとする。太洋が引きずり出す。取っ組み合う。まず八汐を右に二人で埋めて、太洋がこれでもかと砂を盛り上げる。左に太洋を淳が埋めて、同じくらい砂を盛り上げる。真ん中に淳が座って足の方から砂を被せて、どんどん埋めて首まで埋まって、腕が残る。横目で視ている両側が、向こうの腕を先に埋めてと怒鳴る。その両腕で淳は二人の鼻を摘まんだり耳を引っ張ったり喉をくすぐったり。八汐は口に触れられて舌なめずりして

「あ、砂だ」

首を持ち上げて睨んでいた方がげらげら笑う。腹の砂が揺れる。

「変な感触だ」

「……エッチな感触だ」

身動きしなくても砂は密やかに体の窪みに落ちてくる。中天から傾いていく太陽を妨げるもののない蒼穹。瞼の裏でも日の矢が降っている。 肘で砂を崩して腕を抜き、淳の手を探る。すると向こう側でも腕が動いている。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『フィレンツェの指輪』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。