この争いは河内国周辺で二年以上も続いたため、多くの難民を生み、彼らは京に流れ込んだのである。時を同じくして京は疫病や天災に見舞われており、二ヶ月で八万人以上の餓死者を出すほどの惨状にあり、賀茂川の流れが死体で堰き止められるほどであったという。

世情の不安が募る中、もう一つの管領家である斯波家でも家督争いが生じ、斯波義敏と斯波義廉とが緊張状態となった。

斯波義敏の後ろには幕府政所執事である伊勢貞親が付き、義敏の斯波家家督相続を画策した。ちなみに幕府政所執事とは将軍の側近であるとともに、幕府の財政を司る役職である。

一方の義廉は山名宗全と縁組し、畠山義就とも関係を深めた。

そして大乱の直接の引き鉄となったのは、将軍家の家督相続問題である。

実子のなかった将軍義政は、実弟の足利義視を将軍継嗣と定めたのであるが、その翌年に義政に男子が誕生した。この男子の生母であり将軍御台所(正妻)の日野富子は、我が子が次期将軍後継となることを望み、山名宗全を頼みとした。片や将軍家に男子が誕生したことにより居た(たま)れなくなった義視は細川勝元を頼みとした。

斯くして、山名宗全、畠山義就、斯波義廉らは京の西に陣取り、義視を推戴する細川勝元、畠山政長、斯波義敏らは将軍旗を掲げて京の東に布陣した。そして応仁元年(一四六七年)五月廿(にじゅう)(ろく)日、上京(かみぎょう)において両軍は衝突したのである。

はじめ細川勝元率いる東軍に推戴されていた足利義視であったが、(ゆえ)()って山名宗全率いる西陣に鞍替えしたため、事態は混迷を極めた。その〈(ゆえ)〉については、この物語の本題ではないので()(しょ)るが、果たして西陣勢と東軍勢とにわかれて全国各地の守護大名らがこの(いくさ)に参戦し、世にいう〈応仁の乱〉はこの後十一年も続くこととなる。

京の町は言うに及ばず、畿内を戦乱の渦に巻き込み、戦火はやがて全国へと飛び火していったのである。

将軍家の家督は結局、日野富子の産んだ男子が長じて相続し、九代将軍となる。足利義尚である。ところが義尚は近江の六角氏を討伐中に陣中で没してしまう。若くして死去した義尚には子がなかったため、義視の子の義材が十代将軍となった。

三管領家で唯一、家督争いのなかった細川家の家督は細川勝元の実子の政元が相続した。

管領となった細川政元は、折り合いの悪い将軍義材を追放し、足利義政の異母兄の子を擁立し、十一代将軍に据えた。足利義澄である。

将軍義澄を傀儡とした政元は『半将軍』と呼ばれるほどの権勢を誇り、事実上の最高権力者として幕政を掌握したのであるが、修験道に没頭するあまり妻帯せず、子を儲けなかったのである。このことが細川の家を傾けることに繋がる。