一同礼をする。茶が運ばれてくる。麻衣は顔を上げた。向こうも顔を上げた。そして話し出そうとした。だが、向こうが早かった。

「わたしは、勘定奉行の配下の手島林太郎と言います。今日は貴女にお目にかかって嬉しゅうございます」

静かな言い回しだ。麻衣も言った。

「わたしは、柑子町の立花家の長女、麻衣と申します。何分何もできない不出来な女です。よろしくお願いいたします」

「はは、何もできないはずはないでしょう?」

「いえ、本当でございます」

「ハッハッハ……」

林太郎は面白そうに笑った。臨席している奥方は、目を見張っている。ま、というように、そして袂で口を隠した。嬉しそうだ。麻衣は困った。この林太郎が、私に話を合わせてくれているからだ。祖父の方を見ると、祖父も嬉しそうだ。

「庭でも歩いてみませんか?」

林太郎の言葉で、麻衣は立ち上がった。少し遅れて麻衣は歩く。本当は並んで歩きたかったが、そうしてはいけないと祖父に言われていたからだ。林太郎は、後ろを振り返った。

「あなたは、忍びの心得がある」

麻衣は黙っていた。何か粗相をしたかな、と考えていた。

「身のこなしが只者ではない。どこで身に付けたのだ」

林太郎の言葉は、麻衣の身に響いた。麻衣は下を向いて、じっと思案していた。それから前を向いた。

「何のことでしょう。わたしは貴方の言っていることが一向にわかりません」

「そんなはずはないでしょう」

林太郎は麻衣を眺めている。つかつかと近寄ってきた。麻衣の手を握ると、引き寄せる。

「あ、何をなさるの?」

林太郎は麻衣を引き寄せた。麻衣が顔を上げると、麻衣の目をじっと眺めている。

「何、このすかたんが……」

と思うが早いか、麻衣はその手をぱっと引き離した。いや引き離そうとしたのだ。だが、引き離せなかった。じっと向こうは強い力で引きつけている。

「あら、これは手ごわいな」

麻衣はホッと溜息をついた。こうして見ると、この男も案外しっかりしているじゃないの。林太郎は、麻衣に顔を近づけてくる。「あ、どうしよう?」麻衣はしっかり体を抱かれ、林太郎に顔が近づけられているのだ。このままだと、口づけされてしまう。麻衣は思い切って、力強く手をほどいた。このままこの男に良いようにされて、黙っていられるもんかってんだ。林太郎は、離れた。

「いや、済みません。わたしとしたことが……」

麻衣は、「帰りましょう」と言って、今度は林太郎の先を歩いたのだった。その日はそれで双方とも別れ、帰った。

「どうじゃな、林太郎は……」

祖父はにこにこと、麻衣に聞いた。

「立派な人です。立派過ぎてわたしには合いません」

麻衣は、つっけんどんに言うと、その場を離れた。

「いくらおじいさんがいいと言っても、わたしは嫌だからね」

と思いながら、林太郎が迫ってきたあの顔を思い浮かべるのだった。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『紅葵』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。