タケルは自身の夢を思い出しぞっとした。

あんな悪夢ばかり見ている自分のそばでこんな事件が起こるなんて、偶然にしては……

いやいや、まだ、何も分かっていないんだとタケルは湧き上がるどす黒い不安を抑え込んだ。

松永さんは秋元さんを更衣室で休ませるようにとタケルに指示をした。

京都の本校から松永さんに電話があり、それなりの対応をするようにと指示があったからだ。

予備校には止まっている時間はない。

生徒たちや保護者への対応と講師たちには動揺しないようにとタケルに短く言った松永さんは、本部へ呼び出されてその場を後にした。

幸い、篠原さんは四月からこの校にいたが、裏方の仕事しかしていない。

窓口業務や電話応対もできないほど仕事ののみ込みが悪かったので、講師たちとも直接接触がなかった。

学生講師でも気が付いたものは数名しかいなかった。

どうやら会社員とだけ報道され、予備校の名前は伏せるように本社が新聞社などに手を回したようだった。

予備校の名前など出されたものなら、風評被害でどうなることやら分かったものじゃない。

正社員になることが目前なのにタケルは彼女の死を悼む気持ちにはなれなかった。

ブースの中では普段と同じように、授業が行われていた。

時には笑い、悩みながらも時間は過ぎていった。

かつてタケルも学生講師として教えていた頃を思い出した。

あの時の、教えることにひたむきだった自分は今はもういない。

塾の業務は何事もなく終わりの時間を迎え、秋元さんとともにタケルはカギを締めて彼女を駅まで送った。

彼女の親が駅まで車で迎えに来るのだと秋元さんは言った。

タケルは何事もなかったかのように、いつもより早く帰宅できた。

朝からの頭痛も吹き飛んでしまった。

きっと自分の事故以来の出来事に遭遇したからだろうが、実感は薄かった。

見た感じは悪くないのに、何をさせても愚鈍で失敗ばかりの篠原さんに冷たく対応していたことに心が少し痛んだ。

元から、どこにいても彼女はきっと周りとは波長の合わない人だったのではないかとぼんやりと思った。

※本記事は、2020年7月刊行の書籍『双頭の鷲は啼いたか』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。