(2)マニラを訪れる人たち

ツアー到着の一週間前に現地旅行社ヴェロントラベルの責任者であるが挨拶と打ち合わせのため会社にやって来た。

もう二〇年くらいマニラに住んでいるらしく、〈日本人の匂いのしない日本人〉のように感じられた。フィリピンに限らず東南アジアに長く暮らすと、好むと好まざるに拘わらずその土地々々の色に染まっていく。気温が四〇度近くもある所で、日本にいる時のようにあくせくとは働けない。

現地の人を使う場合でも、日本流を通そうとするとうまくいかない。日本では当たり前のことでも、こちらでは普通ではないからだ。現地に長くいると現地では当たり前のことを今度は自分に許してしまうようになる。そうならないように常に日本人のアイデンティティーとビジネス感覚を失わず、且つ現地事情も理解できる、駐在員とはそうあらねばならぬ。

これは日本での研修の時に繰り返し教わったことだった。

現地に慣れすぎた奴は日本に帰任すると使い物にならなくなるとか、リハビリが必要だとか言われるそうだが、お前たちはそうなるなよと叩き込まれた。日本人の匂いとは抽象的な表現だが、平瀬と話していて日本の会社で働いている人のように感じなかったのは、在マニラ二〇年という期間が彼を変えてしまったからなのだろうか。平瀬との打ち合わせでツアーの行程が分かった。

一行は三泊四日マニラに滞在し、二日目の午前中に景勝地、タガイタイの観光をした後、午後一時半にカビテ工場に着く予定だそうだ。バスのドライバーが道に迷わぬよう工場への道順をした地図を渡した。ガイドにはヴェロントラベルの専属日本語ガイドのジェフリーがつくそうだ。ジェフリーはGHフィリピンのユウコの夫で、そのことを平瀬も知っているので担当させるようだ。平瀬が帰った後畦上が教えてくれた。

「平瀬さんはマニラ在留邦人のの一人だけど、持病を持っていることで有名なんだ」

「どんな病気ですか」

「あの人は膿を垂らしながら歩いている」

「えっ……」

と、しばしの絶句。

「スーパー淋病らしいんだ。酒と女が大好きで大分前にマビニのクラブのおねえちゃんから病気をもらったけど、抗生物質での治療中に禁止されていた酒を飲み続けたんだよ。酒を飲むと抗生物質が効かないらしいから。そんなことを続けているうちに、菌に抗生物質に対する抵抗力がついちゃって、今では効く薬がないんだとか」

「本当ですか、それ。そんなウワサ誰から聞いたんですか」

「ウワサじゃなくて、本人から聞いたんだよ。そんな状態でも女買いは止めていないらしい。だから、平瀬さんが食った女は危険だからやめとけよ」

自分からそんな話をするものだろうか、と正嗣はにわかには信じ難かった。やはり平瀬はどっか感覚がずれているのだ。でも、話に人を引き込むような、どこか不思議な憎めない人だった。

「病気を移された女の子たち、結構いるんでしょうね。何かかわいそう」

「あぁ、ペスト菌をばらまいているネズミみたいな人だよなぁ」

「あの~、私さっき別れ際に握手しちゃったんですけど」

「握手くらいじゃうつんないと思うけど、一応手を洗っといた方がいいかもね」

それを聞いて正嗣は洗面所へ走った。

※本記事は、2021年6月刊行の書籍『サンパギータの残り香』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。