そして、後のインド独立の契機を生み出したこの作戦、悲惨な作戦でしたが敵イギリス軍にも多大な損害を出させ、インド国民を覚醒させてインドの独立は早まったのです。尊い命を投げ出された日本軍兵士の皆様には、感謝を捧げ、ご冥福を祈るほかはありません。

ネタージと後に呼ばれたチャンドラ・ボースのことですか。彼は一九四五年日本敗戦時に、台湾からソ連に向かおうとして飛行機事故で亡くなりました。日本がだめなら次はソ連と思ったのでしょうが、それがいかに日本人の心根を傷つけるか。彼の行いのドライさに少々はにかむ思いです。

さて、コルカタが生んだ三人目の偉人。それは映画人です。私が所長を務めるこの映画撮影所で不朽ふきゅうの作品群を生み出した映画監督、サタジット・レイです。コルカタの有名な芸術一家に生まれた彼は、若いころからヨーロッパ映画に親しみ、デザイナーの仕事のかたわら自主映画を作るようになります。

その最初の劇映画こそベンガル文学の小説を映画化した『大地のうた』でした。一九五五年、彼三十四歳の時の最低予算、アマチュアの俳優たち、その他手探り状態で作り上げた映画でしたが、国内外の評価は圧倒的でした。その後『大河のうた』『大樹のうた』とオプー三部作と呼ばれる傑作群は国際映画祭で主要な賞を受賞します。その他珠玉しゅぎょくの作品群は世界の映画ファンを魅了し、作風や動機に変遷は見られても作品の根底には常にインド民衆の、ベンガル民衆の心情が細かく描かれていました。

彼の尊敬する日本の黒澤明には六十年代に訪問し、会う機会を持ちましたが、黒澤の妻は『あれほど立派な人は見たことがない』と驚嘆の言葉を残しています。黒澤本人も『サタジット・レイの映画を見たことがないとは、この世で太陽や月を見たことがないに等しい』とまで述べました。

レイは一九九二年に七十歳でコルカタで没しましたが、ベンガルの文化的象徴だった彼の死に、世界は深くこうべを垂れました。今現在この撮影所で製作されている『マルト神群』は、偉大な映画人サタジット・レイに対するオマージュとして製作されているといっても過言ではないでしょう」

ハービク所長の長いふり絞るような話は一応終わった。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『マルト神群』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。