■加賀藩

102万石の超大藩である加賀藩は、その動向が尊王・佐幕両派から注目されていた。

1864年の禁門の変の前、京都で攘夷急進派が暴威を振るっていた当時、加賀藩では、佐幕派の藩主前田齊泰に対し、尊攘派の藩士たちは世子である慶寧の周りに集まっていた。彼らは京において長州藩士と交わり、慶寧自身も長州藩と朝廷や幕府との間を周旋しようとしていたようである。

その慶寧が、禁門の変があった7月19日、京都の警衛を命じられていたにもかかわらず、病と称して京都を去るということがあった。この行為は、朝廷からも幕府からも、長州藩と結託してのものとの疑いを受け、加賀藩は苦しい立場に立つことになった。

8月11日、慶寧に従って金沢へ帰藩途中の家老松平大貮が、退京の責任を負って、近江の梅津で切腹した。慶寧は帰藩して謹慎の身に止まったが、藩では、齊泰の命を受けた佐幕派の家老本多政均による尊攘派の大粛清が始まり、10月には4人が切腹、1人が生胴、1人が刎首、3人が流刑、以下永牢から譴責と、40人余が罰せられた。獄死者も出た。

これによって勤皇派は壊滅した。鳥羽伏見戦の1月5日の段階でも、藩首脳部は旧幕側での出兵を命じ、旧幕軍の敗走を知って慌てて薩長側への忠誠を申し出るありさまであったという。本多政均は、1869年に尊攘派の生き残りに暗殺された。

『石川県史』によると、刎首となった小川幸三は当時29歳であったが、その妻昌は、幸三の処刑が決まると、日々獄を訪れては、「幸三の代わりに私を処刑してください」、「幸三の代わりに私を」と、追い返されても、追い返されても、嘆願し続けたという。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。