■長州藩

長州藩は攘夷の急先鋒として、特に1863年の「8月18日の政変」の前あたりは京都で大暴れに暴れたが、その前には公武合体路線を採った時期もあった。

1861年3月、藩の直目付長井雅樂は藩侯に、「鎖国の方針を改め、むしろ航海を伸長し、国威を海外に振るう。その方針を朝廷から幕府に命じることで、公武の一和を目指す」との趣旨の「航海遠略策」を建言した。建言は直ちに取り上げられ、同趣旨の藩是が決まった。

藩では、藩主の出府に先立ちこの考えで朝廷と幕府との間を周旋するよう長井に命じ、長井は5月、京都で公卿の正親町三条実愛に、7月から8月にかけては江戸で老中の久世広周や安藤信正に会って、この藩是について説明し、朝幕間を周旋したいと申し出た。

正親町から報告を受けた天皇も、幕府もこれに非常に乗り気のようで、長井に長州藩による周旋を依頼するとした。その後も長井は朝幕間の周旋に努めた。

しかし、この間に和宮の降嫁や坂下門外の変があった。和宮の降嫁を実現するため幕府は朝廷に攘夷を約束したが、幕府が一向にその約束を履行する動きを見せないでいると、急進攘夷派は過激な動きを見せるようになった。そうした時に、長井が朝廷に提出した建議書が公卿の間で回覧され、巷間にも伝わった。

攘夷派は熱り立ち、藩内でも長井は幕府に諂う犬として攘夷派から激しく攻撃された。急進攘夷派の過激な行動に恐れをなしてか、長井に好意的であった公卿たちも浮足立ち、長井の建議書中に朝廷を誹謗する言葉があるなどと言い出した。

どの言葉がどう朝廷を誹謗しているのかも曖昧のまま、結局長井は藩命により謹慎、親類預けとされた後、1863年2月6日、切腹を命じられた。長州藩の藩是は急遽攘夷に変更された。8月18日の政変が起きたのはそれから間もなくのことであった。