第二章 終戦

1 熊本県への疎開 

父との再会

母と弟良治と私の三人で、熊本でなんとか暮らしているうちに、戦況はますます悪化していきました。周囲の農家の方々も困っておられましたが、私たちもこの先どうしたものかと考えていました。

とはいえ、当時の私はまだ小学二年生でしたから、それほど役には立てません。母の心労がしのばれます。ところが、天の配慮かどうかは分かりませんが、ある夜、父がひょっこりやって来たのです。

獣医をしていた父は、満州、北支に従軍徴用されていたはずでした。ところが終戦の数カ月前に、本土決戦に備えて、全く偶然にも私たち親子の疎開先である、熊本県にある司令部に転勤となったのです。

そして、ある夜半、近隣に住む鉄道機関技士O氏に伴われて、何の前触れもなく来訪してきたのでした。

将校の軍服姿で、しかも日本刀を腰にぶら下げ、皮製の長靴を履き凜々しく玄関先に立っている姿にびっくり仰天してしまい、母は腰をぬかす寸前だったと、後ほど語っていたことを今でも思い出します。

そのとき、私は寝床で熟睡中でした。翌朝目覚め茶の間に行ってみると、見知らぬ男が部屋にいて、これまたびっくりしました。幼少の、確か二歳の頃に従軍した父親の顔姿を知る由もない状態での、数年振りの再会でした。

翌朝の帰隊を前に、お世話をしていただいている大屋のご主人や、お寺の和尚さん、区長さんに挨拶回りに行く父と同伴し、見送る途上のことです。

数十メートル先から自転車で駆けてきた下級兵士がとっさに飛び降りると、直立不動の姿勢で父に敬礼するではありませんか。その姿にまたまたびっくりしました。

軍人の規律の厳しさを子供ながらに知るとともに、上官としての父の姿を誇らしく思ったものでした。

その日を境に、子供たちをはじめ部落の方々の私たち家族に対する接し方に、微妙な変化が生じたことを子供ながらに感じ取ったものでした。

油断大敵

父が同じ熊本県にいるということは、どことなく安心感をもたらしてくれましたが、そうした心の余裕がどこかで油断を招いたのか、気が緩んでいたのでしょう。先にも少し触れましたが、私に大きな災難が襲いかかりました。

網津国民学校在学中のことです。数人の同級生とともに、三三五五、下校の道を歩いていました。何か面白いことはないかと話ながら歩いている私たちの傍らを、オート三輪車が走行してきました。

すると、誰からともなく車について走り出しました。

足が速かった私だけが、ついに車の荷台に飛び乗ることができました。ちょっと自慢げに後ろを振り向くと、級友たちははるか後方で手を振っているではありませんか。

誰一人として追いつけそうにありません。急に不安になった私は、後先も考えず、走行中の車の荷台からつい飛び降りてしまいました。

その後のことは全く記憶にありません。村唯一の診療所に緊急に運びこまれ、翌日まで意識がなく危篤状態だったようです。

幸い頭の打撲による脳の大きな損傷はなく、右鎖骨の骨折のみで、三日後には退院したそうです。

故郷から一緒に疎開してきた皆さんが駆けつけてくださり、せっかく戦いを避けて当地まで来たのに、我が子を失うような悲しみに浸っていた母を励ましてくださったことを、後日、母から聞かされました。

伝染性の眼病を患い、週に一度、数キロメートル離れた宇土市にある眼科診療所に通っていたある日のことです。

けたたましいサイレンが鳴り響いたかと思うと間もなく、上空には地を覆い被さるように多くの敵機が悠々と飛来してきました。急いで収穫前の麦畑に伏せ難を逃れましたが、空襲という初めての体験をしました。

※本記事は、2020年3月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 下巻』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。