第一部

さて、佐治衛門一家に話を戻そう。かくして、佐治衛門と半は周囲も認めた幸せな結婚生活をスタートさせたわけだが、順調な家業とは裏腹に家庭内では不幸続きだった。結婚してまもなく第一子となる長女が誕生したが、一歳の誕生日を待たずして早世したのである。

続いて二年後、今度は待望の男の子が生まれた。世継ぎ誕生とあって、父親の小兵衛共々大いに喜び、早速、虎吉という名前がつけられた。しかし、なぜかこの虎吉も病弱な子で、風引きや食あたりを繰り返し、幼少の内に長女に続いて早世してしまったのである。

この頃は、いまと違って衛生環境も悪く医術とていまとは格段に違う。だから、子供が生まれても幼少にして亡くなることは全国的に見ても多かった。その分、女性は多産だったが、幼児死亡率も高いために成年に達するまで生き延びる児とて少なかったのだろう。

なぜか江戸時代の後期になると、飢饉が多発したりして人口はかえって減少していたらしい。富農で食料に困ることのない佐治衛門の一家で早世の子が続く。当時貧しくて稗(ひえ)や粟しか食べられない人が多くいた中で、白米が食べられていたのにである。

しかし、このことが、短命の原因だったことが後世に分かったのである。つまり、白米だけ食べていると、ビタミンB1が不足して脚気という病気になっていたからだ。脚気とは、いまの時代には見られないが、結構怖い病気で、心臓が弱ってむくみが出、病気抵抗力も落ち大病にかかりやすい。

米は脱穀せず玄米のまま食べると、ビタミンB1が保存されるから脚気にはならない。しかし、一見美味しそうに見える白米は、武家や裕福な町民や農民に好まれ、常食されていた。

だから、例えば、徳川将軍家でも外様大名家でも、幼くして亡くなるケースがあちらこちらで見られていた。大抵死因には脚気という病気が関わっていたと言っていいほどだ。

佐治衛門の子たちも例外ではなかった。折角、自分が婿養子として迎えられても、世継ぎもできずお家断絶となれば大変である。佐治衛門は心穏やかならずあせっていたことだろう。

ところが、半は多産体質だった。ほどなくして第三子となる女の子「菊」が誕生したのである。そして、その二年後、再び半は懐妊し同じく女の児が誕生し、その児は「民」と命名された。

娘二人もいれば、どちらかに婿養子をもらえて家系は継がれていく。佐治衛門と半は安堵したことだろう。とにかく要は無事に成人させることである。二人は、細心の注意を払い大事に育てられた。

かくして、十数年の歳月が無難な内に過ぎ、二人の娘は揃って見目麗しい年頃の娘に育っていったのであった。当時は、世間一般に女の子もハイティーンの年頃になると大抵結婚していたようで、あせっていた佐治衛門は親からの催促もあり、姉の菊が十七歳になるのも待たずして早々と婿養子を迎えることにした。

※本記事は、2019年8月刊行の書籍『高梁川』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。