分娩介助者の歴史と無介助分娩 ~産婆の歴史と無介助分娩(終戦まで)~

人の出産には、自然発生的な出産の介助者が存在し、日本ではこのような出産の介助者は「取り上げ婆」などと呼ばれていました。そして「取り上げ婆」は、17世紀初め(江戸時代)から、職種として認められ、「産婆」という呼称は18世紀後半から使われるようになり、明治時代に免許が与えられるようになりました。

産婆に免許が与えられたのは、医制が制定された明治7(1874)年からで、医制第五十条では、産婆の「年齢は四〇歳以上」、「免状取得には医師による実験証書が必要」とされています。そして、明治32(1899)年、全国に統一した規則(「産婆規則」「産婆試験規則」「産婆名簿登録規則」)が公布されることで、産婆の身分は確立していきました。なお、この「産婆規則」により、産婆は「年齢は二〇歳以上」、「一年以上の学術修業後、試験に合格した女子」と大きく変更されました。そうして、大正時代には、産婆養成所で学び資格を得た新産婆が増えていきました。

大正時代から昭和初期には、新・旧産婆の他に取り上げ婆と呼ばれる無資格の産婆もいました。さまざまな産婆が混在する中、新潟県では産婆の扱わない出産は「産婆無介助分娩」と名付けられ、大正から昭和初期までの動向調査が行われています。

この調査によれば、全出産児に対する産婆の取り扱わない産児数の割合は、大正5(1916)年の24.8%から昭和元年には10.1%まで減少し、昭和14(1939)年は5.9%となっています。「無介助分娩」という用語は、ここで初めて登場します。このことから、「無介助分娩」という用語は、産婆に資格が与えられたことによって初めてできたことがわかります。資格のない取り上げ婆が介助する際には、「“無”介助」とみなされることになったのです。

なお、産婆無介助分娩は産婆の開業する地域差が直接関係していました。産婆は都市で開業し山間農村地帯で開業しないため、産婆無介助分娩は山間農村地帯に多かったのです。大正末期でも山間農村地帯では産婆無介助分娩が多く、その理由について、蒲原は、「出産文化の継承により、出産儀礼が重視され、古来から守られ受け継がれてきた旧い習慣から脱却できず、最新の助産法の恩恵に属さなぬ人々が存在していた」と説明しています。

また、藤田は、「農山漁村では、〈産婆学〉をふりまわす未婚の新産婆より経験豊かなおばあちゃんの方が信頼され、(取り上げ婆には)昭和初期まで生き延びる人びとが少なくなかった」と言っています。

このように、産婆は明治時代に資格が与えられ専門職として確立し、資格を持たない介助者は無資格産婆(取り上げ婆)として区別され、取り上げ婆の介助による出産や、取り上げ婆もなく産婦がひとりで行う出産は、「無介助分娩」として扱われることになりました。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『私のお産 いのちのままに産む・生まれる』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。