冲中内科(第三内科)に入局し、冲中重雄教授に師事

インターンを終了し、医師国家試験に合格すると、自分が今後どのような診療科に進むかの選択に迫られます。

私は第三内科に入局し、冲中重雄教授に師事することにしました。冲中教授の臨床講義は斬新で、他の教授に比し一頭地を抜いたものがありました。

臨床講義は階段教室で行われます。その一番下にベッドに臥床する患者がいます。まず教授が病歴を読み上げ、その間に四人の当番学生が患者を診察します。その後、診察結果をめぐって教授と学生が言葉を交わします。このやりとりを、学生たちは息をこらして聞き入ります。それから始まる講義はきわめて論理的で、教科書にない新しさがありました。神経疾患は冲中教授の得意とするところで、多発性硬化症、肝脳疾患、ウィルソン病など、まだその病態生理が知られていない病気を対象として、諄々と講義を続けます。それは、学生が必死にノートをとるほどの名講義でした。『冲中教授臨床講義集』という本も出版されました。

冲中教授は、講義の前日にはほとんど教授室に泊まり込みで準備に当たり、早朝に患者を診察して受持ちに疑問を質しました。受持ちも臨床講義に当たると、懸命に勉強して病歴に記載しました。

冲中重雄先生は、私の恩師です。臨床の第一歩を先生の指導で始められたことは、私にとっては無上の幸いでした。私が先生から学んだことは、あまりにも大きいのでここに少し長くなりますが、紹介させていただきます。

先生は一九〇二年、金澤のお生まれです。ご尊父、太田米丸は一兵卒として西南戦争に参加し、日清、日露の戦役を経て鍛え上げられた軍人で、最終的には大佐まで昇進しました。曲がったことが大嫌いで、地位が上がっても届け物などは一切拒否されました。先生はこの父の性格を受け継いだと言われています。先生の同朋は十一名で、長男は父の跡を継ぎ陸軍中将となり、先生も幼年学校に進学し、陸軍軍人となることが期待されていました。

ところが十四歳のとき、姻戚関係にあった姫路の開業医、冲中磐根の養子となり、その長女智(さとる)との縁組が決まり、名前も冲中重雄となりました。それは軍人から医師へという人生行路の大きな転換でした。こうして一高から東大医学部に進学し、卒業後は第二内科に入局されました。

第二内科の呉建教授は天才肌の研究者で、その自律神経研究は国際的にも名が知られていました。だがその研究のきびしさに教室員は皆、恐れをなしていました。ひとり冲中先生は、どんな無理な命令にも屈することがありませんでした。入局して三年、教授のお供で第一回国際神経内科学会に同行し、世界の名だたる学者に呉教授から紹介され、サインを扇子に記していただいています。不幸にして呉教授は五十六歳で、心筋梗塞で亡くなりました。

冲中先生は、寸陰を惜しんで、研究に励みました。生活費は養父からの仕送り百円でまかなっていましたが、それでは申し訳ないので一高の校医となり、そこからの百円で計二百円としました。ただ本代二十円は、常に確保されていました。昭和十三年には、養父が亡くなり、仕送りもなくなりました。その後、助教授に昇進して、はじめて公務員として経済的に独立しました。

しかし、毎日の精進はいささかも怠ることなく、入局後の十年間というもの、日曜・祭日といえどもほとんど休みをとったことがありませんでした。自分の時間を大切にして勉学に励み、他からの往診、付き合いなどは一切断られました。変わり者と見られたこともありますが、そのうち第二内科に冲中ありといわれ、自律神経研究の呉建教授の衣鉢を継ぐものは、冲中だと広く名を知られるようになりました。