再び所長が言葉をつないだ。今度は傍らのハマーシュタインを意識しているかのように。

「さて、このコルカタからは世界に向かって大いに誇ってよい人物が四人出ました。一番古いところで詩人でノーベル賞アジア初の受賞者、ラビンドラナート・タゴール。タゴールのベンガル語を介した数々の詩集はその後、インド国歌、バングラデシュ国歌の作詞、作曲へと繋がっていきます。日本との繋がりも深く、五度にわたって訪日し、日本の伝統美を称賛しつつも、戦争に突き進む日本への危惧を伝えることも忘れませんでした。タゴールはガンディーのインド独立運動を支持して、ガンディーに『マハトマ』の尊称を贈っています。

次に出てくるのが、スバス・チャンドラ・ボースです。彼は、生まれこそオリッサ州のカタックですが、カルカッタ大学に進みそこで反英闘争に参加し始めます。その後イギリスのケンブリッジ大学院に進み、インド帰国後はますますインド独立運動に邁進し、カルカッタ市長に選出されるもイギリスの手により免職。その後もインド国民会議派の急進派として活躍します。ガンディーの非暴力主義によるインド独立運動を非現実であるとして毛嫌いし、イギリスの武力には武力に拠ってこそ独立は達成されるとの信念を終生変えませんでした。ガンディーと袂を分かったボースはその後ソビエトを頼ろうとしてドイツ、イタリアに接近しますが失敗。次に目を付けたのがイギリスと対立を深めていた日本でした。

一九四一年の日本軍のマレー作戦をきっかけとした日本のインド洋制圧の情勢に好機が来たと見たボースは、潜水艦でドイツから日本に渡り東京に到着します。そこで直ちにインド国民軍最高司令官に就任したボースは時の日本国首相東条英機と会談、インド独立への協力を要請します。東条は援蒋ルートの切断と合わせて、インドの独立を有利と鑑み協力を約束します。日本軍が制圧していたシンガポールで自由インド仮政府の首班となったボースはインド国民軍の創設を進めて再び来日。日本国民にインド独立の支援を訴えます。

そして、日本は一九四一年に秘密工作機関「F機関」を設立し、インド独立支援に向けて動き出します。首班は藤原岩市少佐でした。

東条は一九四三年に大東亜会議を東京で開催し、アジア植民地の独立への機運を高めました。むろん、ボースも会議に参加しました。