Ⅱサン・ジェルマン・デ・プレ秋灯

そのうち、時間が経てば忘れてしまうだろうと思った。海外でのそんな些細な出来事など。しかし私は心を左岸に置いたまま毎日を過ごした。

そして、二か月後の二〇一七年十月の終わりに、再び渡仏することになる。できなかったあの日をやり直せるだけでいい。このままだと、きっと後悔する。理屈でない何かが動き始めていた。私は約束をしたのだ、また戻るって。彼はそれを覚えているだろうか。

私はパリへ行こうか行くまいか葛藤に苛まれながらも、パリのガイドブックをはらはらとおくりながらサン・ジェルマン・デ・プレやオペラ座近くにあるデパートの食品館で買い物をするだけでいい、との覚悟を決めて二泊の旅程を組む。仕事の多忙さは相変わらずだったが、休みは向こうから転がるように手に入った。

彼について知っていることはお店の場所だけだ。簡単な英語で「二晩泊まるえりか」と受取人の名前だけが書けないまま、ムッシュがくれたショップカードを見ながら店宛に葉書を出す。えりかというのは私の名前だと察しはつくはずだ。しかし返事はない。

そもそも葉書は届いているのか、届いていたとしても彼の手に渡って読まれているのか、何もかもが不明なまま、私はエールフランス航空で深夜の羽田から旅立った。あの夏の日の彼の言葉と眼差しだけが頼りだった。

巴里祭や指切りで別れなかった

少しずつ、秋も深まってゆく日本だから、パリはもう寒いだろう。飛行機が日本の上空を離れると、甘い興奮と安心感が芽生える。

思えば、出発当日の夕方、いつもならきちんと事情を説明する私だったが、今回ばかりは職場の誰にも理由を言わず、いささかの緊張を伴いながらもさらりと早退してみせた。事務方の女の子が私の早退に不思議そうな顔で挨拶をしたのは、気のせいではないだろう。もちろん娘の彩子にだけは打ち明けて、飛行機のチケットを手配してもらっていた。

機内オンデマンド・サービスの情報で飛行時間と飛行ルートを確認すると、一秒ごとにパリに近づいていることを実感した。何日も会わないことを考えれば、直行便で十二時間なんてすぐだ。そうして到着予定時刻ぴったりの午前四時に、エールフランスの白い機体は当然のように私をやさしく滑走路に降ろした。