これを巡って藩内では激論があり、過激派は征討軍と一戦を交えることを主張、議論は三日三晩に及んだというが、最後は二人の家老の切腹ということになった。

小夫、小河の二人は1月18日に切腹、藩ではその首を姫路の総督府に差し出して謝罪、宥免を乞うた。

藩主は1月19日に城を出て謹慎、1月20日には土佐藩兵が到着、城に向けて空砲を撃って入城した。

2月15日、藩主は入京を許され、「功を立てて自ら贖う」よう命じられた。

藩では征討軍に加わることを願い出るとともに、軍資金12万両の献上を申し出、3月8日に8万両を納め、残りは翌年から3年で献納ということになった。

以上が「徳川慶喜以下罪案」に出てくる藩であるが、これ以外にも薩長側によって痛め付けられた藩はあった。その一、二を取り上げると次の通りである。

鶴田藩=旧浜田藩

家門8千石の鶴田藩は、もとは6万1千石の浜田藩であった。藩主の松平武聰は徳川慶喜や岡山藩主池田茂政、鳥取藩主池田慶徳と兄弟である。1866年の第二次長州征伐では、多くの藩が戦闘に消極的であった中で、積極的に長州藩に挑んだ。が、結果は浜田城を奪われ、美作国にあった分領に逃れて鶴田藩を称することになった。藩主は長いこと病床にあり、落城時も家臣に背負われて城を出たという。

鳥羽伏見戦では旧幕側で参戦したが、戦後の藩の申開きでは、国許、特に藩主の全く知らないうちに大坂藩邸の藩士たちが勝手に参戦したという。

藩では、岡山、鳥取の両藩にも縋りながら、しきりに恭順・謹慎の態度を示し、特に、藩主は久しく病床にあって、政事にはかかわっていないとし、重臣及び隊長数名が自裁して謝罪したいと哀願した。

その結果は、一時「功を立て罪を償う」ということで落着するかに見えたが、閏4月15日になって、重臣一人の自裁が命じられた。

新人物往来社の『三百藩家臣人名事典』によると、藩の重臣たちは、争ってその一人になろうとしたが、筆頭家老の尾関当遵は、それに耳を貸すことなく、「私は60を過ぎて余命いくばくもない、この腹掻き切って主家の役に立つものなら」と、閏4月19日、京都の寺で切腹した。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。