ざざーっと波の音がサロンに響き渡る。待合席の壁にたてられたサーフボードを眺めながら、二月に行った九十九里浜を思い出す。

朝十時の開店に間に合うよう、夜明け前に家を出た。日の出前のダークな空に徐々に赤みが差して明るくなっていく空、その下に潮が静かに流れている。北東風が強く波が高かった。パドルして沖に向かっていくのも波が多くて大変だった。ざわざわとした海面に反して、海中は穏やかで生温かさに包まれた。だいぶ先から向かってくる波にタイミングをあわせて、ささっとボードの上に立ち上がった。うねりに合わせて無我夢中で水の上を走った。限りない海原を波と駆け抜ける、自然の一部になった感覚を思い出す。また終わった後のウエットスーツを脱ぐ、身を切るほどの冬の寒さと言ったら。月に一度は波に乗るのがやめられなかった。店の音楽は日によって変えるが、自然に帰れるように波風の音楽をかけることが多かった。

今日は一人の来店もなかった。以前ならば駆け込みの電話がかかってきて、夜九時からでもカットすることも度々あったが、今の状況ではないだろう。九時きっかりに店を閉めて自転車で帰った。

人通りのない目黒の細い小道、横断歩道手前に何かが落ちているのを見つけた。子供のころから視力だけは一・五。自転車を停めてよく見ると、それは丁寧に折られたお札で、しかも珍しく二千円札だった。自粛期間で、夜は特に人も通らない寂しい道だ。誰が落とすのだろう。近くに交番もない。人もいない。どうしたものか……。

少し先の暗闇にブルーとグリーンの看板が光るコンビニが見えた。入口前に自転車を停め、手袋を外して中に入るとそのままレジの方に向かった。誰もいないコンビニで肉まんの補充をしていた学生らしき若い男性店員が俺をみるとさっと手をとめてレジに立った。まずい、特に欲しいものはないんだけど……、とっさにレジ前に陳列されていたガムに目が留まった。これでいい。

店員がガムをスキャナーで読み込む。夜のコンビニに一人の客に百十円の買い物。

「ICカードで」

ピッ、と会計が終わると、片手に握りしめていた先ほどの二千円札をレジ横の箱に入れた。「東日本大震災寄付金」募金箱。

えっ?と目が点のまま店員が俺を見ていた。別に変なことをしたわけじゃないけど、彼からみればびっくりするよな。ガムしか買わなかったのに。でも俺はやっと肩の荷が下りた気分だ。その人に一礼して店を出た。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『絆の海』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。