以上八句を披露したところで、仲居さんが、風呂の用意が出来たのでお入りくださいと言いに来た。私はようやく苦行から解放された。脇の下にびっしょりかいた冷汗を、温泉で流すことにしよう。

雨の日の平日で、しかも山の中の一軒家の小規模な宿だったから、宿泊客が少なくて、源泉かけ流しの温泉は私たちの貸し切り状態だった。露天風呂もあったが、外は雨降りのため、誰も利用しなかった。

人の不幸は蜜の味というように人間は他人の失敗談が好きだ。三人が私の失敗作に興味津々だったので、いろいろ話してしまった。絶対に真似はしてはならない句だぞと、三人に何度も念を押した。三人は笑いながら湯の上にオーケーサインを出した。

「ところで松岡、いろいろな趣味がある中で、俳句を選んだ理由はなんだっけ」

風呂の中でも、三人の質問は続く。俳句に関する私のすべてを裸にする気だ。私の体は、風呂場で既にまっ裸になっているというのに。私は次の三つの理由を述べた。

一つめの理由は、松尾芭蕉が「俳諧は三尺(さんじゃく)(わらべ)にさせよ」と、八、九歳の子供のように俳句を作れと言った。子供でも上手に俳句ができるのならば、彼らよりも八倍長く生きて、知識も人生経験も彼らを大きく上回る私ならば、俳句は容易に作れるはずだから。

二つめは、俳句を始めるにあたって初期投資は紙と筆記具以外は不要なので、金銭的余裕のない年金生活者の懐にたいへんやさしい。少し頭は使うが、スポーツのような体力は必要としないので疲れることもあまりない。世界で最も短い詩で、五七五の十七音を並べるだけだから、作るのに時間もあまりかからないだろうと、考えたからだ。

三つめは、俳句を楽しむ人は国内で一千万人ともいわれるように、始めるにあたって壁が低く、日本人なら誰にでもできそうな手軽な趣味だからだ。会社を辞めて自由な時間だけは豊かになった私は、こうして気楽に俳句を始めた。