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結婚とは

僕は何となくではあるが、思春期あたりに突如

「僕って結婚できるのだろうか」

と思うようになった。

「こんな難病持ちに果たして結婚相手なんて見つかるのだろうか?」

と悶々と悩んだりしていた。

「先に恋愛じゃないのか?」

と読んでいる方は思うかもしれないが、当時の僕は結婚できるかどうか、その一点が問題だった。

父や母のように僕と姉を産み育て、家をローンで買って朝から晩まで働くような夫に果たして僕はなれるのか。僕は、できれば家のローンで苦しむような人生はゴメンだなと父母を横目に見て育った。

そんな父は愛媛県出身。19歳のときに殆ど身一つで大阪にある会社に就職して、70歳の退職まで働き抜いた。休みなんて日曜日しかない。

いまみたいに完全土日休みなんてものじゃなく、風邪や怪我などでも休んだことがなんかまったくない。会社と家族と家のローンのために人生の殆どを捧げ、最近やっとのんびり年金暮らしになった。

それに、僕らの教育に関してのことは殆ど口を出さない猛烈サラリーマンだった。それはそれは、僕にとって追い越したくても追い越せない、尊敬とできる感謝の念に堪えない父親である。

母は、父と同じく四国だが香川県の出身で、同じ会社で父と知り会い結婚した。姉と僕を産み育て、いまになってなお僕や姉のことを心配して愛してやまない。

僕が難病SLEになるまでは父を家で支える専業主婦だった。僕が病気になってからはある意味強い母親になり、家計を支えるため歯科医療レセプト請求業務をしていたし、家事も決して手を抜くことなく僕らが独立するまで頑張ってくれた尊敬すべき母親である。

このような立派な両親のように僕は結婚し、家族をつくり、それを支えていくことができるのであろうか。漠然とした不安がいつもあったが、僕にもついにそのときがきた。

僕が結婚する女性、つまり妻に出会ったのは平成14年だ。A障害者施設に中途採用された女性で、僕の一目惚れである。頑張って告白してお付き合いしてくれるようになり、ごくごく普通なお付き合いを続け、本当に僕で良いのか迷ったけどけれど1年後プロポーズした。

その年の5月24日に入籍し、結婚式は6月1日に行った。このとき、僕の結婚感と妻の結婚感にズレがあることは知る由もなく新婚生活が始まった。