墓参を終え、歩き慣れていた野道を歩いて政裕が住んでいた家に向かった。ところがあるはずの家がなくなっていた。住んでいたころいろいろ世話になった分家に立ち寄って話を聞いたところによると、純造叔父がその分家の末の弟の養子先にその家を解体して売り払ったという。

叔父とは結婚式で会ったばかりでなぜその時政裕に知らせなかったのか。その家には政裕の大事な私物が保管してあったのにどう処分したのか。全部廃棄されたのだろうか。この家の普請にどれだけ政裕が子供ながら一生懸命働いたか、その大事な家が消えていたのだ。

家を売ったこと自体問題はないが、知らされていなかったのは政裕が軽く見られていたからだろう。祖父は政裕が大学二年の時亡くなり、その葬式に丹波に帰郷したことがあったが、そのあと一人で住んでいた祖母が大阪の叔父の家に引き取られていることは知らされていなかった。

埼玉に直接帰る予定を変更して大阪に引き返し叔父の家に立ち寄り、祖母と再会することができた。晴子を紹介したら祖母は再会と結婚を喜んでくれた。祖母は政裕にいい嫁が来るようにと毎日仏様に拝んでいたといった。

その日の夜行列車で東京へ、用意されていた埼玉工場の社宅に帰宅、勤務に復帰した。祖母はその後しばらくして九十九歳で亡くなった。政裕が一緒に丹波で住んでいた時から一度も風邪ひとつ引かない元気そのものだった。

あるとき二階の物置から急な階段を降りるとき下まで転げ落ちたことがあったが怪我もなく痛いともいわなかった。政裕がしてあげたことは肩をたたくくらいのものだった。

祖父もそうだったが、医者にかかったことは一度もなく薬は富山から毎年やってくる薬屋の置き薬だけだった。もう一件純造叔父から政裕に知らされていなかったことがある。

丹波にいた間、いつも手入れをしていた父が残した今寺の山林は後年家族とともにカナダに移住したころ、純造叔父が政裕たち兄弟を騙して書類に判を押させ、自分の所有物件にして、こともあろうに同じ集落の政裕の高校の同級生だった男に売却していたことが彼からの手紙で発覚した。

純造叔父が自分の息子が関西学院大学に進むための入学金と学費にその金を使ったことが後年判明した。政裕は大学の進学と学費などに一銭ももらったことがない。

兄と善後策を相談したがどうしようもなく、叔父との付き合いを今後一切やめることにした。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『波濤を越えて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。